私は最近、原節子という女優の希有の魅力と、小津安二郎の作品の面白さに目覚めた者だが、最初に手に入ったDVDがこれで、とてもラッキーだったと思う。原節子の女性としての魅力、女優としての実力が最高潮に達した『晩春』『麦秋』『東京物語』が3作とも収録されているのが何と言ってもうれしい。さらに、これこそが小津映画の最高傑作と言う人もいる『風の中の雌鳥』、脇役だが笠智衆の意外な芸達者ぶりが楽しめる『長屋紳士録』も入っていて、これらがまとめて2000円以下で手に入る。リマスター版ではないので、ノイズの気になる部分もあるが、それを差し引いても大満足のアンソロジーだ。
欲得抜きで惚れた男に尽くす女、男が女に対して描くある種の理想形態である。
多くの場合幻想に終わるけれど、、、。
それを具現した元祖無頼派、織田作之助原作の同名小説を映画化したものだ。
「昭和七年頃」という字幕で始まるこの映画、男に尽くすことを生きがいにした女の物語、おそらく現代においては成立し得ない男女関係が徹底した男側の目線から描かれる。
大阪船場の老舗化粧品店の長男、いわゆる「ええ氏のボンボン」柳吉は妻子ある身でありながら芸者蝶子といい仲になり、熱海に駆け落ちする。
地震にあってほうほうの体で大阪に逃げ帰るが親からは勘当されてしまう。
惚れた男に不自由な思いをさせまいと水商売に戻り必死で働く蝶子だったが、彼女の思いを知ってか知らずか散財を繰り返す柳吉に愛想を尽かしとうとう家を追い出してしまう。
しかし行くあてとてなく、結局は蝶子のもとに舞い戻ってくる柳吉であった。
蝶子を愛しているのだが滅多にそれを口にしない柳吉。
柳吉の父の死、葬式への参列を巡り蝶子の立場をおもんばかろうとしない彼の態度に絶望し、ついに蝶子は自殺を図る。
森繁がほんとに巧い。
痛む体をさすってくれと子供のようにダダをこねたり、「(色町で)遊んでおいで」と蝶子に言われ、「ほんまにええか?」と蝶子の顔をうかがいながらいそいそと支度を始める様子など、巧いとしか言いようが無い。
「芸者あがり」の蝶子、淡島千景がこれまたいい。
柳吉の実家の大店に乗り込んで妹婿への直談判、決裂し啖呵を切って店を去る場面など小気味良く爽快だ。
が、同時に彼女の困窮とのギャップに暗然とさせられる場面でもある。
森繁との息もピッタリ、二人の痴話ゲンカのやりとりなどは微笑ましいほどだ。
蝶子の両親をはじめ多様な登場人物一人ひとりがそれぞれ丁寧に描かれ、積み上げられた人間模様が物語に厚みを与えている。
エンドシーン、一緒に甘味屋で善哉を食べる二人、無一文から再出発を期する姿が健気で潔い。
オールセットで再現された法善寺横丁やミナミの情景も懐かしい。
「昭和は遠くなりにけり」、男女関係もまたしかりである。
いつの時代も巨悪は栄え、トカゲの尻尾は安易に切り捨てられる。 そんな普遍的テーマを扱った、松本清張が脚本から参加した昭和34年のドラマ。
公団の汚職に絡み、検察と上司の板ばさみになった会計課長は、圧力に耐えかね自殺する。 淡島演ずる課長の妻は、自活のため料亭の下働きに身を窶し、懸命に生きる。 店には亭主を死に追い込んだ、憎き公団上層部の面々が出入りしていた。 働き振りを認められた女は、やがて料亭の看板女将へと。 店を差配するようになった女将は、再び汚職にまみれる公団の重要な証拠をつかみ・・・
若く美しい淡島が演ずる女性は、貞淑なサラリーマンの妻から、 生活のため粋筋の女へと変わっていく。その変貌ぶりを見事に演じている。
50年近く昔のドラマなので、現代の目で見れば展開が淡白なのはご愛嬌だが、 今も変わらぬ汚職の構造にメスを入れた清張の筆は見事。
それにしても大物役の佐分利信は、田中角栄に似ていて驚く。
紀子三部作の第二作。日本人必見の映画であることは疑いないが、何が本作を特別なものにしているのか?
まず、他の小津作品に共通する要素が数多く登場し、反復・変奏を本質とする小津映画のファンにとって時間の流れに身を任す悦楽に満ちている。娘の縁談、ユーモラスなまだ子供の兄弟、朝食風景に始まる食事と会話の場面の多用、家が小料理屋の友人、結婚組と未婚組の会話、北鎌倉駅と電車での出勤、次兄の不在に象徴される戦争の影、父母の老い等が、バランスよく盛り込まれている。
では本作のハイライトは? それは杉村春子が原節子に打ち明ける場面。二人の台詞と演技は最高だ。三世代家族の分解のきっかけを作った原節子が涙する場面も良い。
上記ハイライトでめでたしめでたしとはならずに、古き良き大家族の緩やかな解体と諦念を続いて描く点が、東京物語は誰にでも書けても、本作はちょっと書けないという野田高悟の発言につながるのだろう。「みんな段々遠くなる」「いつかはこうなるんだよ」という台詞が心に染みるし、家族の集合写真撮影と埴生の宿を奏でるオルゴールが印象深い。
|