主人公少女時代に通っていたプラハの学校の踊りの先生だったオリガ・モリソヴナの謎を解いていくミステリーで、文句なしに面白いです。最初はただ面白く読んでいましたが、だんだんオリガの過去が明かされていくうちに、ソ連の行った残忍な粛正の恐ろしさに話は及び、共産主義とはなんだったのかと言う事に興味がわきました。そしてそんな恐ろしい状況の中でも人は強く生きられると言う事に感動しました。題名がわかりにくくて手に取りにくい本だとは思いますが、多くの人に読んでもらいたいです。
希少な経験と卓抜な表現力、米原万里さんは、得難い書き手だと思います。 ギリシャ、ルーマニア、ユーゴスラビア……プラハの学校で席を並べた、 国籍の異なる3人の同級生との思い出と再会を描いた本書。 中でも、私の印象に残ったのは最終章「白い都のヤスミンカ」でした。 今も民族紛争の絶えない旧ユーゴスラビアに生きる、 「普通の人々」の姿が曇りのない目で写し取られています。 ベオグラードのイスラム寺院で、ボスニア・ムスリムの少年が 万里さんに語った次の言葉には、真に平和を求める心があります。 「異教徒に対して寛容にならなくちゃいけないんだ。 それが一番大切なことなんだ」(本書p261) 本書に描かれたときにはまだ存在していた 「ユーゴスラビア連邦共和国」はすでにありません。 その後、ヤースナ(ヤスミンカ)はどうしているのでしょうか。
米原万里さんが「不実な淑女貞淑な醜女」を出して以降、一般的にも通訳者や翻訳家さんのエッセイが人気を博しているが、本書はその米原さんが第二のシモネッタと命名したイタリア語通訳者の田丸公美子さんの処女作品です。
内容は、全編、通訳者・翻訳家としての色々な経験や通訳稼業の中で体験した面白話のエッセイで、ツボにはまれば結構笑える作品です。シモネッタの異名通りに下ネタも結構多いのですが、本人によれば、それはイタリア語の翻訳者としては仕方がないことだそう。通訳者は、どうしてもその通訳言語相手の国の文化に同化していってしまい、フランス語担当であれば気障っぽく自意識過剰になり、英語担当者は優等生っぽくなり、ドイツ語担当者はやけに論理的な議論好きとなり、ロシア語担当者はとにかくこの世の不幸を一心に背負ったような風貌・立ち居振る舞いになるそうです^^
本当なのか? と思うようながら、たくさんの通訳が集まるイベントで、第一印象でこの人は何語担当かあてるクイズをやると八割型の正解率でわかってしまうとか。そこまで外観でわかるくらいになるなら、もうそれは仕方がないし、その相手国がイタリアとなると笑えるエピソードが続出するのもむべなるかな。
イタリアの国民性ネタや女の子を追っかけるしか頭にないイタリア男の話がオンパレードです。個人的にはけっこう面白いと思う一冊でしたよ。
1960年代、マリはプラハのソビエト学校に通う日本人少女だった。同級生の中でもとりわけ仲がよかったのは3人。共産主義者の親とともに亡命してきたギリシア人のリッツァ。ルーマニアの外交官の娘アーニャ。そしてボスニア・ムスリム系ユーゴスラビアのヤスミンカ。鉄のカーテンの「向こう側」で少女たちは、大人たちの政治的思惑とともに生きざるを得なかった。
そして90年代、東欧を襲った民主化の大きなうねりの後、マリは3人のその後を訪ねて歩くことになる。
先ごろ亡くなった米原万里氏の著作を手にするのはこれが初めてではありません。しかし残念ながらこれ以前に触れた書は、どうにも露骨な下ネタが多くて、おもわず引いてしまうようなものが多かったのです。
この大宅壮一ノンフィクション賞受賞のエッセイは違いました。1960年代にプラハのソビエト学校で机を並べた3人の個性的な同級生たちのその後を通して、現代東欧民衆史を鮮やかに切り出してみせる名エッセイです。「アーニャの嘘」に隠された真実を追う過程は、北村薫のミステリーを読むような高揚感と、真実の持つ悲しさとを味わわせてくれます。
ですが、30年近い時を経て知る旧友たちの真実は、それでもまだ確たる真実とはいえぬ、ひとつのものをある一方向から見たものでしかないのかもしれない、というやりきれなさも感じます。アーニャの一家のその後の経緯をどう見るか、真実はひとつであるはずなのに、兄のミルチャの言い分、アーニャの母の言い分、そしてまたアーニャ自身の言い分はまるで違います。過去において共産主義とどう向き合ったのか、その度合いによって生まれた心の亀裂は、共産主義が終焉した後も決して埋まりません。
家族を引き裂いたまま共産主義は去っていったということを、痛ましくも感じさせる少女たちの物語です。
通訳者が必要となる多くの場面ではサービスの受益者としては通訳者の腕前を正確に知ることができない。
それは訳が悪いのか発言者の話し方がそもそも悪いのか判別できないからだ。
さらに、うまい訳に見えていても発言者の意図とはかけ離れた内容になっている場合まである。(これがタイトルにある不実な美人)
もちろん通訳にしても貞淑な美女を目指している。
しかし、通訳という仕事の特性や、通訳をする環境などなかなかそうはいかないもののようだ。
読者としては失敗談や恨み節をまじえながら書かれるエッセイに大いに笑った。
それと同時に、自分が通訳者を使うときには自分のためにも少しは通訳者の立場も踏まえて行動しようと思う。
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