小川洋子の装飾的な文の大部分が、ストレートな言い回しになっている。
それを読みやすさと取るか、行きすぎた省略と取るかは、英語を母語としない我々にとっては好みの問題であるのかもしれない。
ああ、懐かしい。おーしえてほしいーの、涙のわけを見るものの全てが悲しく見えるの。身がしびれるような気がします。オムニバスはいいね。こういう特集をやるので。パソコン世代バンザイ!!!!!
こうしたポピュラーの名曲を、オリジナル歌手でなく、くせのない、 澄んだ美しい声で聴いてみたいという人に好適。聴き終えてゆったり とした満ち足りた気分になれること受けあい。いずれの曲も気持ち よく耳にひびいてくるが、なかでも、このアルバムの白眉となるのは、 「あなた」。テンポのゆれ、間のとりかた、クライマックスでのもり あげ方といい絶妙。オリジナル歌手の歌唱では気づかなかった魅力に あふれている。 ただし、難をいえば、「時には母のない子のように」、「恋人よ」は 声域が低く、鮫島さんの声質には合っていないように思われた。
バスに暮らす巨漢の師にチェスの手ほどきを受けた少年は、やがてリトル・アリョーヒンとして伝説のチェス・プレイヤーとなる。しかし彼は決してその姿を対戦相手に見せることなく、ロボット“リトル・アリョーヒン”の姿を借りて駒を握った…。
『博士の愛した数式』で数学に秘められた美しさを見事に描いた小川洋子が今回挑んだのはチェスを言語化すること。ここに描かれているのは、円舞し、滑走し、そして跳躍する駒たちの美しい姿です。私はチェスをやりませんが、頁を繰るごとに駒の躍動するさまを確かに眼前に思い描き、心躍る思いに間違いなくとらわれました。
しかしながらそうしたよどみなく舞い踊るチェスの優美な姿と対比して描かれるのは、リトル・アリョーヒンのあまりに痛ましい人生です。ギュンター・グラスの『ブリキの太鼓』か、John Irvingの『A Prayer for Owen Meany』の主人公を想起させるアリョーヒンの姿は、チェスという美しき詩を描くことを宿命づけられた人間のこの上ない残酷なめぐり合わせを表しています。
そしてまた、もうひとりの主要登場人物である少女ミイラが、人間チェスで強いられた試練の、言葉を失うほどの無残な末路。
チェスが内に秘めたその美を体現するために、人間がかようなまでに過酷に生きなければならないのだとしたら、それはどこかに誤謬があると私は感じざるをえないのです。
そう感じながら私は、チェスに打ち込む少年を描いた映画『ボビー・フィッシャーを探して』のことを思い返していました。あれはまさにチェスの美とそれを具象化しようとする人間の拮抗と均衡を描いた見事な映画でした。あの映画の結末に私は救済と希望を感じたのです。芸術と人はかくあるべしと思ったものです。
本書を読み終えた人には、ぜひあの映画もあわせて見て比べてほしいと強く希望します。
屋根に「偽ステンドグラス」がはめこまれた「最果てのどこか」にある小さなアーケード。その大家の娘「私」は、売れた不思議な商品を謎めいたお客へ届ける配達係……。 使い古しのレース、義眼、ドアノブ、古い勲章など「死者より長生きした」商品は、『沈黙博物館』他小川さんの短編で見られる、怖いほど奇妙でも魅了されずにいられないものばかり。そして「嘘のお話と本当のお話」、「時間と時間の隙間」によって精緻に構築された虚構世界や語り口のすべらかさに、つい個々のエピソードに夢中にされてしまう。 けれど、ヒロインの少女が秘めている喪失感、孤独の深さは衝撃的だ。「火事」という何気ない言葉の繰り返しや、酒井駒子さんの表紙が大きなヒントになっているにもかかわらず……。 砕けてしまった父のプレゼントの「薄紫色の石鹸」、「誰の耳にも届かない、誰にもたどり着けない呼び出し音」が鳴る電話番号、針が動くのを目撃したらさらわれるという「人さらいの時計」など、死の香りの濃厚なディテールが印象的。漫画原作として書きおろされたらしく、イメージし易い描写も多くて、小川さんが初めての方にもお薦め。 『猫を抱いて象と泳ぐ』を彷彿とさせる、静かな世界崩壊感、透明な寂寥感に溢れる、10本に撚った髪で編まれた「遺髪レース」の物語。
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