自らを対象として時代の現実を描く。日本の近代文学にあって“作家の日記”が“1つの文学作品”として認知されているとは未だ言い難い。それは文学という世界にあって“作品と日記の境目”をどう位置づけるかが無意識の中に遠ざけられていることに起因するからかもしれない。
とはいえ、作家も同時代に生きている人間としては他の市井の民と全く同じ存在であることに異論はない。この意味で“作家の日記”は優れて時代意識の反映であると理解することも可能である。
ドイツ文学の『トーマス・マン日記』『ハインリッヒ・ケストナー日記』が“時代の中に身を置きながらも、その自らを対象化しえた”点と比較しながら、本書を読んだ。
殊に興味をひいたのは永井荷風の『断腸亭日乗』に対する著者の視線だった。永井荷風といえば『あめりか物語』や『ふらんす物語』そして『墨東綺譚』の作品が有名であり、初期には前者2作品にみられるように海外への強い憧れが前面に打ち出されているが後期には後者に象徴される下町に暮らす市井の民や男女の心情に焦点があてられている。
こうした西洋に強い憧れを抱いた彼が見ていた時代の現実に対する意識の流れを著者は2種類のテキストから探ろうとしている。
他にも伊藤整や高村光太郎の戦争及びアメリカに対する姿勢など、興味のある点は多々あった。
著者の次回作を期待するならば、その対象を“鴎外と漱石”2人に絞って“近代意識と作家達”のスタンスから『近代日本の肖像』に関しての考察を読んでみたいと思う。
60年代から70年代の開高健、80年代から90年代の辻邦生等は別な意味で“日記”を遺したが、もし今現在、作家の日記から時代の雰囲気を知ろうとするならば、個人的に読んでみたい対象は大江健三郎と三島由紀夫、そして平野啓一郎の3氏の日記である。
時代に弄ばれた苦い経験を持つ文学が自らのスタンスで“時代の雰囲気”を書き残すことも1つの創作行為である、思うのだが無理な話だろうか
村上あつ子(三浦敦子)さん初主演作なのに、彼女がこの作品に触れないのは セックスシーンが原因かと思いましたが 「LOVEHOTELS」でもリアルなセックスシーンを演じているんですよね。 それはともかく、ホリケンさんと村上さんのセックスシーンは面白かった。 赤い腰巻きを外してくれれば、最高でしたね。
岩波から6巻本も出ている。荷風の他の作品が,滅んでもこの作品だけは,残るといわれる作品。すごい和漢混合文である。ここに,本当に自立した1人の人間がいる。
<元気コメント>
永井荷風という作家の自由な生き方に共感してついついこの映画を見てしまいます。
まさに荷風自身が目指した「夜のような獏とした憂愁の影に包まれて、色と音と薫香との感激をもて一糸を乱さず織りなされた錦襴の帷の粛然として垂れるが如き」作品である。耽美派芸術家が描き出す絵画の如き散文詩。ふらんすに纏わる小品の数々は宝石の如く永遠の輝きを放つ。ジプシー女を見事に描く「蛇つかい」、のちの墨東綺譚を感じさせる傘を小道具にした「雲」、水煙草を飲むアラビアの老人が風景に溶け込むような「ポートセット」、苦力の姿に驚愕する「新嘉坡の数時間」など、荷風の風景と女を見つめる目には彼独特の感性が光る。圧巻は荷風が愛してやまない巴里をいよいよ去らねばならない時。その筆先からは悲哀のこもった情感が溢れ出す。「今や蒼然たる夜の衣も燦爛たる燈火の飾りを付けて、限りなき歓楽の夢に入ろうとしているのかと思えば、自分は暗い裏町の冷い寺院の壁に顔を押当て人知れず声を上げて泣きたいような気にもなる」第一次世界大戦前の、歴史上巴里が最も華やかかりし時代を荷風の筆が描き尽くす。黄昏の夢の如き作品である。
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