このころからでしょうか。ブルースウィリスがやけにヌードを披露し始めたのは。当初からジェーンマーチとの濃厚ラブシーンの話題だけが先行し、肝心の映画の内容は二の次に。周囲の反対を押し切ってオールヌードに挑戦したブルースウィリス。彼のありのままの姿にアメリカの映倫が上映を延期し、彼のバッチリヌードも大幅カット。そのことに彼は「女のヌードはOKなのに、どうして男のはダメなのか!?」とそりゃぁもうカンカン。映画会社からはノーカットのフィルムが盗まれたりする騒ぎに。ブルースとジェーンのファンの方は大満足の1作品です。内容は当時流行っていた多重人格物ですが、はっきり言って彼らのラブシーンはいらなかったと思います。アメリカ版は日本版・ヨーロッパ版より少しカットされていますが、なかなかのエロティシズムです。
エキゾチックな映画が好きである。文明の波打ち際にあるような風景が。 自分は子供のころ、東南アジア・・・フィリピンに暮らしていた事があり、その時代への郷愁がそう感じさせるのか、それとも生得の性向なのかは、自分でも判らない。しかし、轍がのたうつ泥まみれの路や土ぼこりの舞う中に立つ、猥雑な熱気を帯びた市場、よれよれの服を着た人々の行き交う姿、そしてそんな街並みの喧騒のすぐ隣合わせに、荒々しい自然が横たわる風景に・・・湿って霞んだ空気の、匂い立つような風景に心が躍る。
1929年・仏領インドシナ − 現ベトナム。半島の奥地から土地を削り取り、混沌と濁ったメコン河が水牛の屍体や流木や、飲み込める限りのありとあらゆるものを懐に抱きながら大洋に流れ込む。その流れの中を漂う一隻の渡し船の甲板に、男物のソフト帽を被って、黒髪のおさげに不釣合いな朱のルージュを口元に引いた、いかにも背伸びをしている風貌の少女がひとり。足元のダンスシューズは傷み、塗装の剥げかかった船の手すりに肘をついた15歳のこの少女(ジェーン・マーチ)は、マルグリット・デュラスの分身である。
本作『愛人 ラマン』は、デュラスの少女時代を投影した、フランス植民地下のインドシナを舞台に描いた映画。 父を早くに亡くし、母は腐敗した植民地行政に騙され、一年の半分が潮に浸る耕作不能の土地をつかまされ、一家は白人社会のどん底の生活を送っていた。母はあまりの貧しさのため、白人というよりはベトナム人そっくりになってしまい、上の兄は阿片に溺れ残虐で暴力的、デュラスが好きな下の兄は知恵遅れのため、虐げられている。居心地の悪い実家に里帰りをしていた少女は、休暇が終わり、学校の寄宿舎があるサイゴンに戻る船の上で、その中国人の青年と出逢った。 青年(レオン・カーフェイ)は、華僑資本家の父を持つ裕福な中国人。中華街ショロン地区の「秘密の部屋」で、ふたりは欲望に身を焦がし、逢瀬を繰り返す・・・。
原作者であるマルグリット・デュラスは、映画製作を途中で降りてしまう。ウィキペディアの映画データベースは相変わらずショボく、「原作者であるマルグリット・デュラスはかなりの難色を示したと言われている」と書かれているだけで何にどう難色を示したのかが全く記載されていない。ネット上に氾濫する映画ブログも、ウィキをコピペしただけでそれ以上自分で調べようともしない劣化記事ばかりである。
デュラスは、『愛人 ラマン』映画化の過程で、監督のジャン=ジャック・アノーと喧嘩別れした、と言われている。具体的に何があったのかは語られていないが、それは多分にこの物語に対する解釈の違いから生じた確執のようである。 アノーは本作に関して、「愛についての映画を撮りたかった」と言っている。 この主眼点が、そもそもデュラスの原作と異なっているのだと思う。 原作小説は「自伝的作品」と表現される。この「的」が重要で、決して「自伝小説」ではないのである。 インドシナを舞台に、デュラスの少女時代を投影して書かれたものに『太平洋の防波堤』『愛人』『北の愛人』の三部作がある。この作品の舞台となるインドシナは、現実の地図に必ずしも対応していない、デュラス独特の地理学によって形成されていて、批評家から「デュラジア(デュラスのアジアという意味)」と呼ばれている。 また、『太平洋の防波堤』では一人だった兄が、『愛人』では二人になるといった違いがあり、こうしたことから『愛人』は回想ではなく、語り手である「わたし」は、デュラスの想像の中の人物だと言われている。 もちろん、この少女にはデュラス自身が投影されている事は間違いないのだが、では何が違うのだろうか?
この物語を観ていて異様に感じるのは、白人とアジア人の立場が逆転してしまっていることだ。少女の母や兄は、中国人青年に食事に招かれると、レストランの席でガツガツと貪るように食べる。そのくせ、白人であることのプライドから、その青年のことを完全に無視するのである。食事を奢ってもらっているというのに・・・。 少女は、青年を愛していない。「これからもずっと貴方を愛することなんてない」と云う。 では、この少女はなぜこの中国人青年との愛欲に溺れるのか。
この物語で鍵を握るのは、下の兄の存在である。長兄から暴力を加えられ、おびえるこの次兄に、デュラスは近親相姦的な感情を抱いていたという。 「母親が昼寝でぼんやりしている間に、ふたりの子どもは森に入り、マンゴーの実をむさぼった。兄妹の間に強烈な親密さや排他的な激しい愛がはぐくまれ深まったのは、こうした遊戯や水浴や森への逃避行のおりである。・・・次兄はわたしのただひとりの肉親だ。彼は敏捷でしなやかで、東洋人のような切れ長の目をしていた。・・・ああ、死んだ兄さん、わたしはあなたをどれだけ愛していたことか」(『語る女たち』より) 次兄は'42年の戦争の最中に急死し、その強い衝撃から、デュラスが彼に対して抱いた「非常識な愛情」は、「うかがい知れぬ神秘」のまま、彼女の心に留まり続けたという。 後年、デュラスはインタビューの中で、中国人の愛人は下の兄の身代わりだった・・・「わたしの秘密はそれだ」と告白。少女は、中国人の青年と交わることによって、下の兄と交わる・・・『愛人』は、デュラス本人が言うところの「代理恋愛」の物語なのである。
『愛人 ラマン』で描かれるのは“性”という本能だ、と監督のアノーは言う。「これは人間の根源的なニーズであるにもかかわらず、無視して稚拙な説明をつけようとしてきた。しかし“性”は意思で解決できるものではありません」と。 主人公の少女は、意思で自分の“性”をコントロールできると思っているが、最後で彼女は「彼を愛していた」と悟るのだ、と。
アノーは、少女の中国人青年への愛を、最終的には純粋なものとして描こうとした。しかし、デュラスは全く違ったものをこの二人の関係の中に暗示していたのだ。デュラスが不満を覚えるのも無理はないが、しかしそんな事は作家本人しにか判り得ない事でもあり、アノーがそこまで深読みしてこの映画を撮ったとしたら、それはそれでかなり居心地の悪い映画になったのではないだろうか。
映画の製作の過程で、アノーとデュラスはかなり言い合い、ぶつかったらしいが、それによってデュラスもアノーが主人公の少女をどれほど愛しているかを理解したという。 アノーいわく「製作中には互いに葛藤しながらも、出来上がった作品を見て、永遠の友情を結ぶ」事ができたのだそうだ。これがこの映画製作の顛末だ。 映画『愛人 ラマン』は、原作となった「愛人」よりもその後に書かれた「北の愛人」と共通点が多いと言われるが、それもそのはずで、当初デュラスが映画のために書いていた脚本を、小説としてまとめあげたのが「北の愛人」なのである。
理屈っぽいことを色々と書きたててしまったが、本作はとにかくインドシナ(現ベトナム)の沸き返るような街中の活気、東南アジアの陽光、植民地政策という混沌とした坩堝の中で煮立ってむせ返るような猥雑な文化のエネルギー、その中を彷徨う白人の少女の姿・・・ 「匂い立つような」映像とはこの事だ。空気の湿り気までもが画面から漂ってくるような映像は本当に魅惑的だ。 ジェーン・マーチの存在感、濃厚なベッドシーンなどについては、他のレビュアーの方々が書かれているのでそちらにお譲りするが、筆者の印象に残ったシーンでは、寄宿舎の級友で、少女よりも成熟した印象のエレーヌ(演じるはリサ・フォークナー)とジェーン・マーチが踊るシーン。うまく言葉では云い表せない色々なものがこの二人の踊りには象徴されているようで、とても美しかった。
原作のファンは、総じてこの映画に対しては厳しい意見を表明する方が多い。中国人青年のイメージがかけ離れている事については特に。 しかし、デュラスが描くインドシナが「デュラジア」という半現実・半架空の土地であるのと同じように、映画『愛人 ラマン』の中でアノーが描いた世界も、またアノーの目線で見たインドシナなのだ。 アノーは『愛人 ラマン』を完成させ、デュラスは『北の愛人』を上梓した。 われわれ観客は、この二人の狭間に横たわるインドシナの空気に、身を委ねればいい。ただそれだけだと思うのである。
最高です。 色んな御姿のアリカ様を見る事が出来ます。 本書の内容としては、題名にある通り、アリカ様御自身の御写真とアリカ様の書かれた詩が載っています。 詩の内容はロリィタについての物が多いです。 私は、結構良い事が書いてあったと思います。 アリカ様の生き方の片鱗に触れる事が出来ます。 欲を言えばもっと豪奢なドレスのアリカ様 今までのジャケットのアリカ様などが収録されてればもっと良かったと思います。 この方は魔女では無いでしょうかと疑ってしまいます笑 可憐な少女から官能な王女まで様々なアリカ様が見れます。 ファンなら絶対買うべき!!
ビデオを観てよかったと思いました。
このころからでしょうか。ブルースウィリスがやけにヌードを披露し始めたのは。当初からジェーンマーチとの濃厚ラブシーンの話題だけが先行し、肝心の映画の内容は二の次に。周囲の反対を押し切ってオールヌードに挑戦したブルースウィリス。彼のありのままの姿にアメリカの映倫が上映を延期し、彼のバッチリヌードも大幅カット。そのことに彼は「女のヌードはOKなのに、どうして男のはダメなのか!?」とそりゃぁもうカンカン。映画会社からはノーカットのフィルムが盗まれたりする騒ぎに。ブルースとジェーンのファンの方は大満足の1作品です。内容は当時流行っていた多重人格物ですが、はっきり言って彼らのラブシーンはいらなかったと思います。アメリカ版は日本版・ヨーロッパ版より少しカットされていますが、なかなかのエロティシズムです。
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