が実際に起きているのであれば、循環系に大きな穴が空いていることになる。 また使用済み燃料プールの水が漏れる事態になればその後どのようなことが 待ち受けているのか真剣に国民一人一人が考えなければならないだろう。 地元の人たちの働く場所も命がなくなってからでは意味がないではないか。 そこまで考える時期に来ていることをこの本は如実に物語っている。 youtubeでも彼の意見を見聞できるので是非そちらも見て欲しい。 ポール・ガンター博士はメルトスルーだけではなくメルトアウトつまり建物構造外への 流出にまで言い及んでいる。これにより地下から出る放射性水蒸気の拡散を押さえるのが 建屋を覆うテントの主たる役割だという。これを国からではなく外部の学者から 知るという実に苛立つ状態が我が国の現状であり、この方針は最後まで貫かれるであろう。 戦前と何も変わっちゃいないね、この国は。 追伸 この本を読んで何故燃料が短い鉛筆のようなペレット状で筒に詰めてあるかが 分かった。水との接触面を増やして、接触面と内部の距離をできるだけ小さく するため。メルトダウンが起こるとこれらがくっついて最悪の状態になるという ことだ。 訳が悪いというレビューがあったがそんなことは感じられない良書だと思う。 追伸2 この本には放射性瓦礫の分散と処理がいかに困難で危険かが分かりやすく書かれている。 瓦礫処理や再稼働のような重要な問題を地元の了解だけで進めようとするあちこちの首長や 国のやり方は大いに問題ありである。事故が起きてからでは遅すぎる。 廃炉40年見直しってことは放射脆弱で崩壊するまで使い続けるってことなんだろう。 その時、福島の事故とは比べ物にならないくらいの悲劇が起こることは想像に難くない。 追伸3 最近ベルギーの原子炉でひび割れが生じていることが明らかとなったが、このようなことは 既に日本でも生じており、世界中の原子炉で起こる可能性がある。しかも同時多発的に。 非常に高い圧力のかかる入れ物に亀裂が入っていても稼働を続けるのであろうか? これと同じものを動力源に使っている原潜など移動する福島原発である。 全く狂気の沙汰と言うしかない。 追伸4 乱立政党の中で即時停止を主張しているのは共産党だけ、福島級の事故が起きたら一巻の終わりなのに 10年かけて原発ゼロなんて実質続行と全く同じだ。例え、停止したところで廃炉なんてできるのであろうか? 非常に疑問である。解体する時に生ずると思われる強烈な放射線下でいかなる作業が可能なのだろうか?
多くのレビュアーの方が書かれているとおり、胸に響くノンフィクションだと思う。 原発の是非は問わず、菅直人元首相の言動についても必要以上の悪意は感じられない記述であった。取材先によって書いた内容に濃淡があるのは、詳細に取材できたところとできなかったところの違いであり、憶測では書かなかったということなのではないだろうか。
自分も仕事で警戒区域内に入ったことがあるが、たった数時間の滞在にも関わらず、見えない恐怖から自分でも気付かないうちに疲れ、帰るとぐったりしてしまった。あの極限状態で長期間、命がけの作業を続けた関係者の方々には、ただただ尊敬と感謝である。
本書はエンディングに向けて、個々の登場人物の人となりやご家族についても触れている。この中で、震災当日の津波で犠牲になったにも関わらず、根拠のない噂から「逃げた」という中傷をマスコミやネットで受けてしまった21歳の作業員について丁寧に取材し、紹介している。この若者とご家族の失われた名誉を、淡々とした記述の中でしっかりと回復させようとしているところが著者の良心ではないかと感じた。メディアの影響力は、このように正しく行使して欲しい。
事故の拡大原因の技術的な側面については慎重な姿勢を取っている。 たとえば『FUKUSHIMAレポート〜原発事故の本質〜』が「あの期に及んで廃炉を避けようとしたのではないか」という推測付きで指摘した「2・3号機への海水注入の遅れがなければ2・3号機のメルトダウンは防げたのではないか」という論点への言及は避けている。3/12夜の官邸での1号機海水注入決定のドタバタは描かれている(p.82-83)が、3号機への注入が3/13午後、2号機は3/14夜になった経緯の記述は不明瞭である。官邸の動きの記録もなぜか3/12夜から3/14夜に飛んでいる(p.83からp.84)。 東電のヒアリング拒否のもとでの欠席裁判は避けているように思われる。
私が本書を手に取った動機の一つが、本書がマスメディアに取り上げられた際に、菅首相(当時)の言動のあげつらいにスポットが当たりすぎているような気がし、それを現物で確かめたい、ということがあった。退陣までの迷走などもあり、私にも菅前首相を弁護する意欲も義理も無いが、どこか不自然なものを感じたのだ。 本書に当たると、確かに菅前首相のリーダーシップについて歯に衣きせぬ論評が行われているが、これだけ情報の通りが悪く東電本店の動きが悪い中で誰がこれ以上できたのか、という部分にも多くの記述が割かれている。マスメディアは自らが続けてきたバッシングを補強する内容を、他の重要な論点を脇に置いて、重点的に伝えたのだ。 マスメディアに関連しては、患者を置き去りにした、とバッシングを受けた双葉病院についての記述もあった。院長は警察の指示で警察車両に乗り、また戻るつもりで病院を離れたが、別ルートで病院に入った自衛隊はそれを知らなかった。この「病院関係者がいなかった」がマスメディアを通すと「患者を放置して逃げた」の断定になる。
マスメディアは報道機関ではなく、断罪機関なのだ。
この報告書では、原因の考察では関係者の個人的資質や雰囲気の醸成といったところにまで踏み込むが、再発防止への提言では断罪でなく仕組みの提案に努め、そのていねいな検証ぶりは、マスメディアの論調とは一線を画している。(最初に書いたように東電の初動対応の評価に踏み込めていないのは残念だが。)
一方、そうした改善への提言の数の多さに圧倒されることも事実。 そうまでしても「放射性物質が存在する限り、(中略)無数にありうる(危険の)顕在化のプロセスを全てなくすことは不可能」(p.288)なのだ。 私たちは何というものを持ってしまったのだろう。ロスアラモスに太陽が出現した瞬間から、どれだけの人間がこの感慨を抱いたのか。
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