小説にしか描き得ない、言葉にしか表現できない世界を実現している点で、大いに評価すべき作品ではある。本書を読んでモデルとなった舞台を訪ねるというのも、『ダヴィンチ・コード』かよといいたくなるが、そんなことは要らぬお節介だろう。勝手に訪ねなさい。 しかし、そうした読みには、意外に本作に対する誤解があろうと思われる。人生は仮初というが、それも単なる誤読に過ぎない。いわばこうした誤解は、現在の小説に対する誤読の典型であり、こうした誤読が小説の衰退を招いている。 それは、言葉の機能としての小説の力や本質をことごとく侮っているからだ。幻想的なファンタジーに癒されて、そのモデルを訪ねてみれば、自分も実際に小説世界を「体験」できる、 あるいは、物語世界の対象が半島へ紛れ込んだブルジョア元大学教授のロマンティックな体験(自分勝手な男の妄想)であることに感受し、もう一つの人生もありうるとの読者自身の妄想をのみ喚起している以上は。素朴にそういう読み方も、読者の自由であるという「相対性理論」はここでは問題外(議論以前)とする。 カズオ・イシグロの『充たされざる者』は本書と似たテイストながら、遥かにリアリティがあり、ロマンティックな妄想とは縁遠い。そして、明らかに小説としての可能性を拡げている。 『半島を出よ』にしても、一見全く異質な半島に入るこの物語にしても、明白にマッチョな妄想に根差している。マッチョが言いすぎなら、男の妄想と言い換えても良い。 それでも本書は十二分に評価すべき小説だ。言葉の芸術である小説の「言葉の機能」に対する周到な計算が感じられるから。
本書の著者は、四方田犬彦『ハイスクール1968』2004
でねじめ正一などと共に「真に詩人としてアイデンティティ
を確立」した者として紹介されていた人です。その人らし
い異様な悪徳小説と、まずは言っておきましょう。
前半での自宅やスコットランドでの主人公の過ごし方
には自意識過剰気味ではあるものの、とりあえずはごく
普通の老いの姿が描かれています。ところが、ROMS
というクラブに主人公が出入りするようになるあたりから
転調し始め、最終章で一気にヒートアップします。
鬼面人を威すが如き結末には、主人公のモデルと思し
き三島由紀夫への著者の思いと国境を軽々と超える姿
には自身の老後への願いが込められているように思いま
した。
“映画批評家”中原昌也が14名の批評家、監督、俳優、作家らと語り合う。
ゲストは蓮實重彦、鈴木則文、柳下毅一郎、西島秀俊、芝山幹郎、阿部和重、
長嶋有、井土紀州、樋口泰人、青山真治、平山夢明、松浦寿輝、金井美恵子、金井久美子。
これだけ豪華でバラエティに富んだ映画対談の本は、近年なかったと思う。
「SPA!」の連載「エーガ界に捧ぐ」では言いっ放しの回も多い中原氏だが、
ゲストを迎えたこの本ではきっちり自身の映画愛を表明していて、
また「共感」を押し売りする最近の映画への苛立ちもしっかり伝わってくる。
賞賛するだけじゃなくて、「大奥」、「神童」などを
(ときに関係者を前にして)斬りまくるのも面白い。
対談なので読み口はさっぱりしているけれど、
現在の映画批評の最前線、といっていいのではないだろうか。
阿部和重氏との前著『シネマの記憶喪失』とは違った、
相手によって毎回違う語り口が魅力。
大物ゲストを相手に押したり引いたり、中原氏の「話芸」が読みどころか。
装丁もじつにかっこいい。前著に引き続き表紙の映画は「スキャナーズ」。
ボーナストラックとして「あとがき」も付いている。
映画好きを自任する人は必読だと思う。
読売新聞で連載中の川の光2を楽しみに読んでいるので、著者は他にどんなものを書いているのか興味があり購入した。 ある程度予想はしていたが、動物を擬人化する想像力と奇想天外なストーリーは楽しめたが、もう少しリアル性があってもよいと感じた。
修行僧の独白のような言葉の数々・・・
自分を戒めるかのごとく書きとめられたメモの連なり・・・
ロベール・ブレッソンの映画を観て誰もが抱く印象は、この本にも当てはまる。
なぜプロの俳優を避けて素人を使い続けたのか?
自身の映画を「シネマ」ではなく「シネマトグラフ」と呼ぶ理由は?
その答えがここにある。いくつか引用しておこう。
「もし或る映像が、それ自体として切り離して眺めたとき何事かを明瞭に表現しているならば、また或る解釈を包含しているならば、それは他の映像群との接触によって変化することはないだろう」
「トーキー映画は沈黙を発明した」
「君のモデルたちが抱いている意図を根こそぎ抹殺せよ」
「モデルたちが自動的に動くようになり(すべてを計測し、重さを量り、時間をきっちり定め、十回も二十回も繰り返しリハーサルすることによって)、そのうえで君の映画の諸事件のただなかに放たれるならば、彼らを取り巻いている様々な人物やオブジェと彼らとの関係は正しいものとなるだろう。というのも、それらの関係は思考を経たものではないからだ」
ル・クレジオの「序言」も読める。
|