悲しい史実をスリリングなサスペンス映画などと言っては失礼なのかも知れません。でもこの映画には思わず息を呑む場面が多くあります。特にドイツ兵が本棚の前まで来て隠れている事がばれそうになる場面は本当にハラハラしました。そして電話が不気味に鳴り続ける場面。屋根裏部屋でピーターと会話しながら遠くにサイレンが聞こえ、だんだんと近ずいて来て、それが自分達を捕まえる為のものだと知り、最後の口ずけをピーターと交わす場面。それはまるで、甘い思い出を過酷な運命の前にしっかりと脳裏に焼き付けようとするかのようでした。そして皆が覚悟を決めて、見つかり逮捕される瞬間を静かに待つ場面。その際に娘と妻にバッグをやさしく手渡す父親の態度が愛情に満ち溢れているのを感じました。ユーモアあり、悲しみあり、サスペンスあり...お奨めの名作です。
日記と書いてあるのでリアルタイムで当時書いたもののそのままの出版と思われがちだが
実際は
本にするためアンネ自身が書き直した日記をさらにお父さんが編集したものが一般的な「アンネの日記」なのである
その辺の認識がないと「騙された」ということになり捏造疑惑が湧いてくるわけであるが・・・
確かに思想的な思いを書きなおしの際に含めたり、都合の悪い事は削除したりした可能性は多々あるし、読んでいてひっかかる部分もある
しかし、それではまるっきり嘘ばかりで真実がないかというとそうでもない
ドキュメンタリーであれ、ニュースであれ
人の手を介した以上、何かしら意図がそこに含まれることは仕方ないし
(これは翻訳の際の言葉選びにも言える)
完全なノンフィクションなど存在しないわけで
全てが真実のような既存の売り方にも問題があるが
この本全てを「真実だ」とか、「捏造だ」とか白黒しかないような論戦は実にくだらない行為だと思う
個人個人がリライトであることを踏まえて読み、どの部分が真実でどの部分が違うのかそれぞれ大戦中に思いを馳せて考えて判断すればいい
現在、その判断に一番最適なのがこの「完全版」
オリジナル日記と書き直し版日記を足して編集し、お父さんが削除した部分も補完してあり
現在出ている中では一番オリジナルに近い
あと、子供の書いた日記にいちいち整合性がないとか言うのもどうかと思う
特に日記なんかはその日の思いつきで書いてるんだし
とにかく
従来の「アンネの日記」を呼んだ事がある全ての人がこれをもう一度読むことをオススメしたい
わたしにもなにか新しいものを始めさせたいと考えたパパは、クレイマンさんに頼んで、子供向きの聖書を買ってきてもらいました。そういうわけで、この年になって、ようやくわたしも新約聖書について多少のことを知ることができるようになったわけです。(一九四三年十一月三日 水曜日)
アンネは、あるとき、大切にしていた万年筆を自らの不注意で台無しにしてしまう。
たったひとつ、ささやかながら慰めがあります。わたしの万年筆は、火葬に付されたということです。わたしもいずれは火葬にしてもらいたいと思っていますから。(一九四三年十一月十一日 木曜日)
このプラス思考は、アンネが生来持っていた性質かもしれない。しかし、新約聖書中の次に引く一節を連想させもする。
一人の女性が、高価な香油をイエスの頭から注ぎかけてしまう。
なぜ、この婦人をいじめるのか。わたしに良いことをしてくれたではないか。(中略)この婦人がわたしの体に香油をかけてくれたのは、わたしを葬るためである。アーメン、わたしは言う。世界中でどこででも今後この福音が説かれるところでは、この婦人のしたこともその記念のために一しょに語りつたえられるだろう。(マタイ伝第二十六章第十節‐第十三節)
アンネが意識していたかどうか、それは、知るよしもないが。
「一九四四年二月十八日 金曜日」の項に、突然、「じゃあまた、アンネ・M・フランクより」と署名される。それまでは、「じゃあまた、アンネ・フランクより」だったのに。なぜ?
「一九四四年五月八日 日曜日」の項を参照すると、アンネの父方の祖父の名は、ミヒャエル・フランク、であることがわかる。署名された「M」は、ミヒャエルの「M」なのだろうか? 「一九四十四年一月二十八日 金曜日」の項を参照すると、アンネは「各国の王室の系譜とか、系図とか」に興味を抱いていたらしい。自分の家の系図にも興味を抱いた彼女は、ミヒャエル、と署名するようになったのだろうか。
私は、年下の女の子から向上心を育てるための、こつを教わった。
だれもが毎晩眠りにつく前にその日一日の出来事を思いかえし、なにが良くてなにが悪かったか、きちんと反省してみるならば、ひとはどれだけ崇高に、りっぱに生きられるでしょう。そうすれば知らずしらずのうちに、あくる朝からさっそく自分を向上させようと努めるようになるはずです。
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