私は20代で読んだ時あまり面白く感じなかったのですが、40代で再読して心に沁みる作品だと思い直しました。おそらく自分も結婚して子供もいるからわかる世界があるんでしょうね。経済的な苦労の部分も私には身につまされるところがあり、等身大の自分に近い状況設定も惹かれた要因でした。 ミホの純粋さはこの作品の重要な主題です。夫の不義に怒り狂う彼女の姿がいかに醜悪であっても、夫トシオが彼女の狂気に背を向けることができないのも彼女の純粋さゆえです。 浮気そのものをモチーフにする小説はごまんとありますが、それを罪悪と捉えその贖罪の様を真正面から描く小説はあまり見当たりません。「浮気が罪である」というあまりにも当たり前な道徳観を作者は本気で信じているからこそ、この作品は真実の輝きを帯びるのです。この作品の重苦しさは贖罪というものが当然担うべき重苦しさであると理解すべきです。ミホの狂気が全篇にわたって際立ちますが、実は夫トシオがミホの狂気に翻弄され、時に逃げ出したくなり悪戦苦闘しながらも結局受け止め続けているからこそ、この小説は均衡を得ているのです。だからこの作品はやはり夫婦愛を追究した小説だと言ってよいのです。 後年島尾氏はクリスチャンになられていますしご夫婦の関係も改善されたご様子で本当はそこまで描けば分かりやすいのでしょうけど、そこまで含めなかったのは作者のいかなる考えによるのか分かりませんが、贖罪に終わりはないという島尾氏の贖罪への思いが込められているのかもしれません。 映画はつまらなかったと思います。夫の一人称でその内面が綴られる小説のよさがほとんど失われているからです。夫の内面を通じて描かれる内的葛藤の姿がこの作品の命だと私は考えます。ミホも松坂慶子というあまりにもイメージの出来上がった著名な女優が演じているので小説のイメージが全く損なわれています。やはり小説で読むべきですね。
表題作などの戦記物は今でもかろうじて他の本でも読めるが、この本には、戦後まもなく昭和22年のデビュー作『単独旅行者』が収録されている点が貴重だ。 学生時代を過ごした街へ戻ってきた「僕」は、知人のロシア人宅を訪ねてから、バスで一緒になった女と同宿して一夜を明かすが、翌日には別れて旅を続ける。それだけの話なのに、読む者はすでに島尾文学という王国が確立されていることに気づかされる。そこは「不安が転移して行く」世界であり、「身体もめちゃくちゃだし、此処(頭)も時々変になるのさ」との告白がなされる場所だ。 特攻体験から生還した島尾氏は、戦後の世界には自分の居場所がない、と絶望していたのだろう。『帰魂譚』(昭和36年)では、「私は家に帰るために、いったいどこで下車したらいいのだろう」と書いている。 さらに、原因不明の言語障害に陥った長女マヤを神経科へつれていく『マヤと一緒に』では、「家族の誰かが気がふれるというイメージを消すことができない」と記している。 端正な文章の間から、とどめようもなくあふれ出してくる作家の不安。それは、ある種の悲しい神話のように、いつまでも胸の奥で響き、こちらまで何かを喪失したような気持ちにさせられた。その意味で、ものすごいパワーを持った作品群だと思う。
昭和の大作家島尾敏雄は、芥川賞をのぞく日本文学界の各賞をほぼ総なめにしたにもかかわらず、没後二十数年を経て、「死の棘」、「死の棘日記」以外の作品は、一般に読み親しまれているとは言いがたく、とても残念に感じる。戦争を題材にした物語がエンターテインメント化されてしまった今では、「戦争文学」は若い読者を構えさせてしまうのかもしれない。
しかし、誤解をおそれずに言えば、「出孤島記」「出発は遂に訪れず」「その夏の今は」の、あの八月半ばの日々を綴った一連の作品は、戦争文学であるのに、まるで安部公房をロマンティックにしたように読めるし、「夢の中での日常」「島へ」など幻想的な作品群は、日本版カフカとも言えるだろう。
「あらゆる不幸は実らずに枯れてしまい、中間地帯にとり残されたまま老けてしまう」(「鬼剥げ」)、「不毛への意志のようなもの」(「島へ」)という一節に表われているように、島尾氏の視線は常識的な日常、人がそうであると了解している現実とは別次元で、古びることのない神秘性と暗い端麗さをたたえ、今もパワフルに胸に迫ってくる。
巻末の吉本隆明氏の簡明で味わい深い解説がよいガイドになったが、作品の初出一覧のない点は惜しまれる。復員後まもなくなのか、「死の棘」事件後に書かれたものなのかなどがすぐにわかれば、作品への興味や理解もぐんと深まると思うのだが。
本書冒頭、1945年〈昭和20年〉8月の人口ピラミッドの図表に釘付けとなって動けなくなる。 男も女も15歳から、40代までの人口がほとんどゼロに近いのである。
救いは〈と言っていいのだろうか)15歳未満の人口がかろうじて残っていることである。 それはつまり「カンプー」の「クェヌクサー」 そこから、沖縄の戦後思想は始まるのである。
「カンプー」の「クェヌクサー」とは、 「カンプー(艦砲射撃)」の「クェヌクサー(食い残し)」 という意味である。
食い残しとは凄まじい言語感覚である。
著者は沖縄学の開祖、つまり戦前の沖縄の思想の源である、伊波普猷の研究家。
「IN」における島尾敏雄「死の刺」の文体模写を凄いと思ったが、今回は林芙美子になりきってしまった!桐野夏生、凄すぎる。林芙美子の隠されていた私的な記録、という形で、林芙美子の作品としてのフィクションを書くという発想も、それを書く勇気も、他の作家にはないものだろう。
「IN」でも感じたが、桐野氏にとって小説とは、純粋な芸術作品でありながら、編集者と共同でつくりあげるものだ。プロの女流作家ならではの意識で、飾りのない真実だと思う。だからこそ、裏切られた時の苦しみは、女として作家としての全てを全否定された、地獄の苦しみとなる。今回の作品では戦時下の作家活動という深刻なテーマも絡み、描かれるのは、まさに血を吐くような命がけの恋愛であり、創作なのだが、対する男のほうは、それだけの覚悟があったのだろうか。編集者に見放される芙美子の凄絶な苦しみが作者の痛みと重なって、熱く揺さぶられた。と同時に、他の女流作家をともすれば「甘い」と思ってしまう芙美子の作家としての強さ、したたかさも、桐野氏本人に通じる魅力だ。
綿密に調べ上げた史実や、風俗の柱をきっちりと構築した上で、自在に羽ばたく創造力、芙美子に憑依する作者の語りの強度に圧倒させられ、一気に読んだ。
終わりのほうで、編集者・謙太郎とばったり会う場面にはっとさせられた。この、何気ない場面が書かれたことで、あれだけ激しい恋愛の末、子どもまで身ごもったのに、ひとりで産み、育て、小説を書き、死んでゆく芙美子の姿に、女の怖さをまざまざと見たからだ。きっちりと閉じられる物語が、フィクションとは思えず、鳥肌の立つような思いで読み終えた。
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