氏の作品の主人公は共通して知的でロマンチストな気が。 恋や青春の部分でなく、自分も話せなくなった経験があるので、その部分にかなり共感。 確かに人を好きになるのは狂気の沙汰だと。誰かを無限に愛することは既に「信仰」なので。
映画を見て、原作を読んでから、このDVDを見ました。原作にあって、映画で物足りなかったものをシンプルにまとめ、森山未來のナレーションで進められます。なんだか、映画と原作のいいとこどりをしてるそんな内容に、もう一度、映画を見たくさせます。
『世界の中心で、愛をさけぶ』の著者はかなり感性の高い人だと思う。だから幼いころから<死>について考え、その裏返しとして<生きまどう>ことが多かったのだろう、と察せられる。
そんな著者が正面から向き合った相手が森有正だ。
森有正について簡単に記しておけば、1950年、東大仏文学科の助教授のときフランスへ留学。東大からの再三の召還にも応じず、職と家族を捨て、パリに暮らしつづけた哲学者である。専攻はパスカルおよびデカルトだが、日本ではむしろ『バビロンの流れのほとりにて』や『遥かなノートル・ダム』などのエッセイで多くの読者をつかんだ。
そうした森有正の思想と人生について、著者は「孤独」「絶望」「時間」「出発」という4つの断面から迫ろうとする。
「孤独」とは、パリという街で<自分>を発病してしまった森有正の《自分以外の何もあてにしない》生き方だとされる。人種や肩書も取り外した生き方……。
「絶望」とは、森有正が大聖堂や古典といったヨーロッパの文物に圧倒されながら、しかもその西欧の文物のほうからはまったく相手にされていないという思い。それにもかかわらず孤独にパリで生きる、その困難さをさしている。
すべてを捨ててパリに生きることを決断したとき、森有正は日本人として擬似的に<自殺>したのであり、「時間」とは、一度死んだ彼が<人間>としてふたたび甦るための道のりであったという。その一例として引かれるのがリルケの『マルテの手記』を読むのに、なんと9年もの歳月をかけた(!)というエピソードだ。
「出発」とは、再生した森有正が彼自身のよく知られた言葉「経験」「感覚」「定義」に象徴される思想を獲得していくプロセスであり、自分の還っていく場所(著者の言い方によれば「どこへ向かって死ぬか」)を探し求める旅だとされる。
かなり硬い内容だが、じつは、以上は第一部の要約である。
著者が森有正とどう出会い、どう読んできたかについてのインタビュー(第二部)、さらには森有正の足跡を訪ねてのパリ紀行(第三部)という、第一部ほどは肩の凝らないページがつづき、片山恭一の捉えた森有正の全人像が浮かび上がる仕掛けになっている。
本書は「こう生きよ」とか「死とは何か」といったことに関する<答え>を用意しているわけではないが、「生きるとはどういうことか」「死をどう受けとめるか」ということを考えさせる一冊である。
TV版があまりにも素晴らしかったため、その後に観たこの映画版は、感動の薄いものになってしまった。
最近、音楽にハマってしまって、いい歌を探し回っています。 Youtubeを観たり、音楽番組見たりして、 そして、見つけましたよ! このアルバムすごく良いですよ! 10曲全部良かったです。 是非、聴いて貰いたいです!お薦めですよ!
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