一頁目から唸ってしまった。“一九五六年三月十六日深夜ひとりの赤ん坊が生まれてすぐ死にました。その死体に私は宿りました”……この手があったのか! つまり主人公は金毘羅。女の肉体を仮の宿としている、性別のない魂なのだ。かつてミシェル・ウエルベックは「素粒子」において、モテない男の怨念を描き、最終的に、地球が性別も肉体もない生命体で満たされる未来を夢想した。しかし「金毘羅」においては、初めから主人公は性別も肉体も持たず、時に窮屈な仮の肉体に支配されながら生きる。ジェンダーの問題に取り組んできた笙野氏の、過激な設定に驚く。「女も男になれる」なんて偽善的な建前の男社会バカバカしーい。だってもとから男でも女でもないんだもーん、てわけ。 そして小説は、太宰・三島ばりの私語りのスタイルで進むかに見えて、決してそうはならない。幼少期の世界との違和というここちよい物語に浸ろうとするたび、高笑いする金毘羅に遮られ、関節をはずされる。金毘羅は人間を嘲笑して曰く“文学の世界で語るべき事が何もないと言ってる人間は、新しく語るべき現実から目を背けているだけ”“「私などない」と言ってる人間は自分だけが絶対者で特別だと思っているからそういう抜けた事をいうのだ”“大量死で文学が無効になったという人間も爆撃テロで文学が無意味になったという人間も自分は死んでいません”。これは、精神を失った肉体の物語が横行する小説界への反逆なのだ。 デビュー後十年間の不遇時代を経て、その後十二年間“奇跡”的に小説を書き続けた主人公の戦いを、神々のたとえで描く後半はとてもスリリングだ。苦悩の果てに主人公は叫ぶ。“金毘羅だ! 私は金毘羅になった!”この金毘羅一代記は著者最大の力作だが、これが到達点なのではなく、新しい笙野文学が誕生したのだと思いたい。
「実録純文学闘争十四年史」というサブタイトルの通り、1991年の「売れない文芸誌の不思議」という新聞記事に端を発し、2002年の某文芸誌上での座談会「言葉の現在」後本格化した一連の文学「論争」をつぶさに報告している……いや、これでもまだあるらしいが。笙野氏のいう「論争『だけ』ファン」ではないものの、論争のゆくえはずっと気になっていて、できる限り追ったつもりだったけれど、うっかり見すごしてしまったものも多く、今回の本は、待ちに待った一冊だ。 「論争」とカッコがついてしまうのは、これがたとえば芥川と谷崎とかそういう文学論争とは全然違う、いわば敵が敵にもなってない論争だからで、というのも「敵」は笙野氏の小説を読んですらいない気配なのだ。 笙野氏が、長い間この戦いから決して降りることなく、複数のメディアと自ら交渉し、そして論争によって貴重な文学メディアが荒れてしまわないかにまで気を遣いながら、ずっと戦い続けたことに、驚嘆するばかりだ。ここまで文学への愛を貫く姿に、ぐっと来た。もう一生涯ついて行きます、みたいな。表紙帯を飾る論敵の個有名を見れば、それだけで「よくやってくれたっ」と溜飲が下る向きも多いだろう。 ただ、いなくならないんだよね、彼ら。って言うか、増殖し続けてる。文学の世界に関わらず、全てにおいて、本質から離れて「売上が……」という余計な声は今どこにも蔓延していて、で、実際の売上の数字とそれはさして関係なくて、とにかく「売れないものはだめ」と偉そうに言うことで他人のすることを邪魔してる。というか、単なる新手の嫌がらせ。それから、作品を素直にまっすぐに読めない「明治政府ちゃん」たち。それを考えると、次から次へショッカーのように敵は増え続けるわけで、むしろもう世界を相手に戦っている、というか……負けるなジェイソン笙野!たとえ最後の三百人(違う!)になってもついて行くぜ。 実際「水晶内制度」にしても「金毘羅」にしても、氏の小説は、既存の小説からも既存のフェミニズムからも遥か遠くへ行っていて、読者も評論家ももはや必死で追いつこうとしてる状態。この本の後半は「金毘羅」読解の手掛りになる部分もあり。ファン必読です。いや、もう文学を愛する全ての人必読。
笙野頼子は、ぶっちぎりのエンターテイメントとして読んでます。
物語を読む量が閾値を超えると、デジャブ感覚におそわれることがあります。
『ブレードランナー』を観ていて、あぁ『野良犬』だなとかね。
実際に引用が行われたか否かより、デジャブ感覚というなにか、頭に刺さったとげのようなモノを抜きたいのです。
物語が好きでたくさん読んだのに、カンタンに楽しめないという悔しさ。
『二百回忌』では、”死んだ身内もゆかりの人も皆蘇ってきて、法事に”でます。
『二百回忌』は、言葉のアヤではないのです。
”ヨソノ家デハ誰モ蘇ッテ来ン”と母は言い、両親がこのことを恥と思っていない様子から、蘇りは、不思議なことではあるけれど、それぞれの家にある独特なしきたりに似た、いとなみであることが、腑に落ちます。
おもしろい映画のはじまりに感じる予感があります。すべては見通せない、でも共感、リズムがいい、といった言葉が渾然となった、どこかうれしいアナログ的感覚です。ワクワク。
もちろん、笙野さんの小説には、それがあるといいたい。
この本のタイトルは『笙野頼子三冠小説集』とあり群像野間三島芥川泉伊藤で、計六冠。
自分くらいの本読み(なぜかえばってる)が好きな作家でも、どこかエンタメのニオイがすると、かしこい系の賞を取れないことは、ママあるなかで、うれしいし、おもしろさのお墨付きという、外部からの証明は、本屋さんにおいてもらいやすいので、なによりです。
ヨイトコロまだまだあり。映像的だし。SFもかけるし。ドメスティック(日本、その村や村社会)でありながら、ユビキタス(偏在、普遍、、、妖精の目で妖精を見る)的な新しい神話とも思えるし。
なんというか、大好きですね。
蛇足ですが、
言っている文章はわかるのだけれど、何を語りたいのかわからない、という人もいると思います。それは、書いてあるフェミや私小説家やそのほかのテクニカルタームを正式な意味でとらえようとして、作家の言い方や言い草に気が回っていないのです。
蛇足の二つ目ですが、彼女の作品で『金毘羅』があります。
実際の金毘羅は、クンピーラ、インドの神様でガンジス川のワニ。ヒンズー教。このワニが、仏教に取り込まれて帝釈天となるのですがなぜか、昔の名前、コンピラで出ています。また、廃仏毀釈の荒波で、お寺から神社に宗旨替えするというウルトラCを決めたこともあります。恨みの人、崇徳天皇が眠っているので、明治天皇も即位してから真っ先に訪れたとも、聞いています。また、山の上につくられた宗教施設なのに、海運の神様です。そして、、、
ホントにまだまだフシギはあるのですが、
コーユー知識と作品とは、まったく関係してません。
ただ、日本というわけのわからなさ、家というわからなさ、こんぴらというわからなさ、といったわからさと、通底はしているのかもしれません。
そして、このわからなさの正体は、依り代、だなと予測してます。
雑司ヶ谷を舞台に、最近は地域猫という言い方が確立しつつある外猫をめぐっての壮絶なバトルの記録である。私もかなり外敵と思ったヤツには戦闘態勢に入る人間だが、ここまではできないだろうなーと、改めて尊敬の念を深くしてしまった。結局は自分で飼うことになり、郊外とはいえ一戸建てを買ってしまうあたりも、真似はできないために憧れてしまう。すごい人です、笙野さん。 それにしても、ここまでしなきゃ猫が生きていけないという日本の社会、今さらだけど、どこかが間違っている。「やはり僕たちの国は残念だけれど 何か大切なところで道を間違えたようですね」byさだまさし。
あのさぁ……お前のカーチャンいつまで成長するき? 早く止めてあげろよ。 何十年発達するつもりなんだい? 純文学もいいけれど、言ってあげろよ。 そろそろ疲れたでしょう、って。 三冠だか、なんだか知らないけれど、諭してあげる事も考えてね。 あと関係ないけれどさぁ……。 芥川賞は、芥川への愛が狂おしい程に吹き荒れている奴にあげろよ。
と、天におられる天使さまは仰っています。
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