87歳と言う年齢が書かせる思いなのでしょうか。その文章は切々と胸に響きます。
80歳から7年間「一月一話」の形で書き継がれた思いは、広い分野に渡ります。そこに著者の経験と知識が集大成されているように思います。
学生時代をアメリカで過ごし、戦争によって戦争捕虜収容所から自らの意思で日本に帰国します。ドイツ語通訳者として従軍するも病に冒され帰国します。
そのアメリカからの帰国は、日本と言う「国家」に帰るのではなく「社会」に帰ると言う意思の表れでした。
裏返せば、「法律上その国籍をもっているからといって、どうしてその国家の考え方を自分の考え方とし、国家の権力の言うままに人を殺さなくてはならないのか。」と言う疑問として表現されます。
それは、カール・ヨーキム・フリードリッヒの「民主主義を支える柱・・・として普通人(コモン・マン)をあげる。普通人は、まちがうこともあるが、長い年月をかけて持続する状態で見ると、まちがわない」と言う考え方に同感するからだろう。
そして、バラク・オバマのアメリカ大統領就任が、「自分の富の増大と地位の向上をめざすことが人間の使命だというような精神社会」が、「伝統的なものと奥の方で結ばれているそれぞれの社会の抵抗する精神」を弱体化させたアメリカを安定化させることが出来るのかと弱気な期待を寄せているように思えます。
もっと端的に言えば、「戦争をしないでやってゆける国」に戻せるのかと訴えているように思えます。
一部哲学的な部分もあり歯ごたえのある文章ですが、言っている内容は新鮮で、まだまだ「老い」を感じさせない力強さで訴えかけてくる良書です。
This novel is the first of Mishima's serial novels The Sea of Fertility that tells the life of the primary incarnation of the protagonists that occupy the central stages throughout the four books. Like all of his other novels, it is a very artificial construction beautifully executed. Yet this one and the following three serials trace the process of the inevitable disintegration of the construction rather than the consolidation of Mishima's seemingly monomaniacal Japanese right-wing vision as you might expect. The work anticipates many of later Japanese fictions of the 80s by Kenji Nakagami and others in its cartoon-like formal simplicity of the plots and its rejection of realistic depictions. I believe Mishima fans should read this one not as a book of epiphany but as the final dream-vision of the genius who also recognized the inevitability of the historical reality.
i do confess that i am neither young nor very literate, yet i could appreciate mishima's work both in japanese and in english. to tell you the fact, mishima's japanese is not really difficult to read. he has a very good command of older idioms of japanese written language, yet he deploys them quite artificially like numbers. Besides, confessions of the mask is a story told by a high school kid after all, although i do not deny its importance as a commentary on the tradition of confessional novel forms in japan. i wouldn't listen to people who tend to make writers' works sound more difficult than they really are.
30年くらい前だったか、深夜にテレビ放映があったので興味本位で視たが、形容しがたい雰囲気の作品で強く印象に残った。その後眼にする事はできず、最近まで記憶から遠ざかっていたが、この度偶々DVD発売を知り早速に購入した。細川のややデフォルメした口調は特徴的ながら違和感は覚えず、黒沢の演技も新鮮で妖艶だけで終わっていない。作り話と言ってしまえばそれまでだが、まじめな気持ちで三島文学として視たい作品のひとつだ。
例えば、「愚民社会」とタイトルを付けながら、中身では一言も「愚民」という文言がないという批判がある。馬鹿を言え、批判する君が愚民だからそんなことが言えるのだ。「愚民」すなわちエリートの反対に位置する者。まったりしようと思ってもそうは出来ない者。それは、宮台の言うとおりエリートとして生きるべきなのだ。君にはその資格がない。当たり前のことだ。大塚の言う「土人」。これは差別用語でも何でもない。我が国民の多数を言い当ててこれほど的確な言葉は今までになかったのではないか。変な遠慮があったからだ。だから、それを「差別」と思う者は、君こそ批判されてしかるべきなのだ。素直に言えば、また現状を直視すれば、必然的にこういう議論になる。だが、未来に希望がないわけじゃないか。大塚が言っている、自分は何もしないけれど教育はする、と。宮台が言っている、自分は私塾を引き受けて続ける、と。そこだよ、そこ。私教育によって人材を鍛え、その人材によって国家の将来を設計させ、同時に、その設計図を国民が自分のものとして引き受け、かつ実現に尽力する、そこに国の未来がある、そう思う。ばかばかしく、かつ分かりきったことだ。それを、揚げ足取るように批判するのは、まことに「愚民社会」である。ともあれ、お二人に国を動かす大きな力があるとはあまり思えない。しかし、言わないより言ってくれた方がよかった。言ってくれたわずかな隙間にわれら「愚民」は未来の展望を見た。近頃読んだ本で一番「説得力」のある本だ。かつての三島の本のように、しおりを挟んで「後で」とは中々言えない本だ。高い金払って(本を買うときはたいていこういう気持ちになるが)買ってよかった思う久しぶりの本だ。変なたとえだか、辺見庸に匹敵する議論だった。筆者の挑発精神が旺盛だからだろう。
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