なじみのある良い曲が、一流の演奏者が奏でているのでお得な一枚。夜のくつろぎタイムや、食事中に聞いています。バッハの曲はシリーズで買うと長いのですが、これはバラエティーに富んでいるので飽きさせません。でも全体として選曲に統一感があるので聞いてて心地よいのがいいです。これを聞いてから、結局グールドの他のバッハや、吉野直子さんのハープを買いました。バッハが大好きな人も、初心者にもオススメです。
丁寧な演奏は奇をてらったところがなく、ピアノのレッスンのたいへんよい参考になりました。
ピアニスト中村紘子が中央公論に チャイコフスキー・コンクールについて書き始めたのは、 実に今から26年も前のことだという。
1982年に続き86年もそのピアノ部門の審査員を引き受けた著者は、 まさに当事者でありながら、コンクールというものの存在意義について考え続けていた。
観客に過ぎないレビュアーからすると、 コンクールで優勝したからといって、そう簡単に彼らが当代一流の演奏家を凌駕するような 音楽を聴かせてくれるわけはないから、受賞歴はあまり重要ではない。 しかし世に出るチャンスを渇望している無名のプレイヤーにとっては、 コンクールこそがその機会に他ならない。 コンクールが「正常な才能のための定期的発掘装置」であるという著者によれば、 それは同時に、ある種の異才・奇才とでも呼ぶべき才能は、選からはもれてしまうことになる。 その一方で優勝者がかならずしも超一流になれるとは限らない。
そのような矛盾の中で、審査員であるピアニストは悩んでいるように見える。
当時の時間軸ではソビエトという国がまだ存在していて、 そしてその末期に開催されるコンクール、そして参加者は時代というものに翻弄されていく。
しかし、現代から本書を読んでみても、そこにある問題や著者の洞察は、 少しも古臭いものには感じられないのである。
そういう意味で、本書が復刊された意味は大いにあると思う。
時代によってピアノ演奏に求められるものが変遷していきます。 リストやショパンの時代、他人の曲でも自己流に弾くことが求められていました。 アレンジすることで、人々は熱狂した。 ところが録音技術が発達すると、即興は原曲を間違って弾くことと考えられるようになり、 ピアニストは、正確に弾く技術を求められるようになる。 そして現代はプラスα。映画になりそうなその人の人生ドラマが売れる切っ掛けになる。 そして作為的にルックスのいいピアニストを養成しようというビジネス企画すら起こる。 非常に読みやすく、中村さんが等身大で著名ピアニスト達を描くので 芸術家といった重苦しい雰囲気がありません。 両親が音楽家であったバレンボイムは「人間はみんなピアノが弾けるものだ」と信じて 子供時代を過ごしたとか。有名ピアニストなのにそう見えない風貌の写真も載せられていて、 読んで楽しい内容です。
なんていうんだろう??・・・ 私、中村紘子のピアノって、いつ聞いても思うんだけど、 音の表現が、ものすごい演技派女優くさいっていうか、 言い方がわるいかも知れないけど、 「バブル期のトレンディードラマの主演女優」のように 思えて仕方ない時がある。 なんて言うか、きれいなデザイナーズマンションがあって、 部屋は広くて、そこには高いワインがあって、 そのワインは、当然いつも冷えていて、 窓からの景色は、東京中が見渡せる高い場所で、 しかも、音は静か・・・。 いつも、こんな印象で聴いてしまう。 そんな印象の聴き方で、正直自分でも「曲がっている」って 非常に思うのだが、決して嫌いではない。 音の調律には誰よりもうるさく、 納得行かない録音は、絶対世に出さない姿勢や、 演奏の際の、華やかさやきらびやかさは、 男の私でも、憧れるときがある。 そして、実際このショパンも、 「華麗なる大円舞曲」は、中村紘子独特の、 音の強弱の使い分けや、それに伴う感情の表現が、 すごいイヤミに感じそうな部分もあるように見えて、とても一流。 やはり、日本を代表するピアニストは、 音に対する姿勢も、音も違うと実感できる。 でも、ひとつだけ思うのが、いつもピアノに向かっている彼女は、 「私は、ピアニストの中村紘子よぉぉ~」と、 全体から滲み出るオーラが、たまに怖い時がある。
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