もう、たくさんのレヴューが出てますので、何を付け加えればいいのやら。とにかく全てが面白い、一部の文人については著者の個人的な交流がベースとなっていますが、ほとんどの文人については、大量の二次的な資料の食という角度からの読み直しに基づいたエッセーです。
それにもかかわらず、またスペースも限られている中で、食という観点からのそれぞれの文人の本質とすさまじいパーソナリティを抉り取ろうとした作品です。
えらばれた37人の中に世間で言う食の常識人は数少ないようです。漱石で始まり、最後は三島で終わっているというのも見事な構成ですね。藤村、茂吉の食と作品の関わり方の解読は目を開かされました。三島と小林秀雄への微妙な距離の取り方も彼らの或る側面についての著者の評価を反映しているようです。
食の好みは必然的に社会的な背景を持つものですので、知らず知らずのうちに日本の近代文学や社会風俗の歴史についても理解が深まります。また食欲は人間の本質的な欲求ですので、そこにはその人間の生き様が好悪を含めてトータルに見事に現れるようです。
1984年に発売されたカセット・テープ『音版「唐組」紅テント劇中歌集』(構成・監修・唐十郎、唄・李麗仙ほか、プロデュース・小室等、パルコ出版)が、ようやくCDで復刻された。1967年(昭和42年)「ジョン・シルバー」から1981年「お化け煙突物語」までの主要曲が、製作時点での再録及びテレビ番組録音も含め上演年順に並んでいる。曲間には当時の舞台を振り返る唐十郎と嵐山光三郎のDJが入り、澁澤龍彦 、渡辺えり、扇田昭彦、村松友視、衛紀生、清川虹子、蜷川幸雄のライナーも復刻され、新たに唐十郎、安保由夫の書き下ろしが加わるという豪華版だ。
アルバム冒頭とラストの山下洋輔トリオの演奏と状況劇場男性コーラスによる「よいこらさあ」は、伝説の新宿ピットイン「ジョン・シルバー」初演時の音ではなく、17年後の再録のようだ。山下(ピアノ)、中村誠一(サックス)、ドラムスが豊住芳三郎から小山彰太に代わっているとはいえ、当時の状況(劇場も含めて)を髣髴とさせる。そうなのだ、この音やこの感覚が新宿を中心として展開し始めていたのだ。残念だがオイラこのピットインでの初演を見てはいない。上京すればピットインに立ち寄るようになったのは、その公演直後からなのだ。
この頃、相倉久人は「すべての既成芸術は急速にエネルギーを失いつつあり、次代をになうイデオロギーは、行動が思想を生み出していく」として、「状況劇場――若松プロ――ジャズというライン」を提示し、「それは、小劇場――アングラ――商業主義的ジャズに対するアンチ・テーゼである」と状況劇場の公演チラシに書いている。地方のハイティーンとしては、新宿で渦巻いている熱気そのものを「アングラ」と思っていたのだが。実際、三者のジャンルを超えた相互浸透は、絵画、音楽、小説などの他ジャンルを巻き込み、時代が変わっていくこと、また変わりつつあることを実感させていった。
さて劇中歌に戻ろう。当初は唐独自の詩に依ってはいるが、ほとんどが替え歌であった。当時、フォークの六文銭リーダー小室等が曲を担当することにより、オリジナルの劇中歌が生まれてゆき、劇中音楽のスタイルを形作っていく。そして状況劇場座付作曲家とも言うべき安保由夫により、魅力的な劇中歌とエンディングのカタルシスという、状況劇場ばかりでなくアングラ演劇独自の劇中音楽スタイルが確立することとなったのだ。以後多くの劇団がその音楽スタイルの影響下に演劇活動を展開した。現在、状況劇場の流れを汲む新宿梁山泊にもそのスタイルは継承されている。
御上が認める検定教科書に載るような文人の私生活がいかに荒れていようとも、彼らの作品の輝きは色あせぬ。作者によると、不倫可能な人妻は、美貌でセクシーで知的でなきゃだめで、どんなに美人であっても感性が鈍いと良い男がよってこない。芥川龍之介の心中を思いとどまらせた某女史やら、幸田家の息女文とその娘のお話やら、太宰治の至言「家庭は諸悪の根源」とか、檀一雄宅に寄宿していた坂口安吾夫妻の「ライスカレー事件」とか、結婚と離婚を繰り返しながら、夫以上に波乱万丈の人生を送った宇野千代とか、譲渡された妻とか、女性解放運動の先駆者兼妻とか、数多くの興味深い逸話から、文人色々、その妻も色々なのがわかります。
嵐山さんの文章はじめてよみました。文章の冒頭は「魔がさす」ってどんなときなのか?って疑問をなげかけ、おもしろそうな感じだったけど、あまりにも途中で横道にそれ過ぎて、その疑問には答えてもらえません。先生自身の紀行文や思い出がだじゃれを交えてかかれているだけです。横道それすぎで、ほとんど、ななめ読みをしてしまいました。満州鉄道や東北震災のはなしが入り乱れて、現在と過去、短歌の話・・・ とりとめなく長い文章で・・かなり・・でした。
99年新潮社から単行本として刊行、02年同社より文庫化された作品の新装版。新潮社文庫版のあとがきに若干加筆したものを、中公文庫版あとがきとしているだけで本文に加筆などはないようだ。
日本の近代文学者49名(一部洋画家の岸田劉生等文学者ではない人も取り上げている)の「死」に際し寄せられた同業者達の「追悼文」「弔辞」から、その文学者あるいは作品が同業者達からどのように見られていたかを浮き彫りにしようという作品。
追悼される側だけではなく追悼する側の人となりが垣間見え、とても楽しい読書の時間を過ごすことができた。
著者嵐山光三郎は、「ナマの心情」が出るとして、死から数年経ってから刊行された追悼文集ではなく、死後すぐに出された新聞や雑誌の追悼号から追悼文を選び出したと書いている。古書蒐集は趣味でもあるとはいえ、かけた時間と労力を想像すると頭が下がる思いがする。
さらに、著者は、小説家への追悼は文芸である。文の達人が全霊をかけて書き上げた作品である、とも書いている。
賞賛、批判、批判の名を借りた悪口、過去に批判されたことに対する意趣返し、老作家による思い出話。著者の書くとおり「作品」の名に値するものもあれば、本当に文の達人か?と思ってしまう空虚なものもある。本当に様々な追悼文があるものだとひたすら感心。
たしかにこれは「ナマの心情」が見えるのであろう。またそれと同時に追悼する作家の実力も見えるように思う。
そして、多くの追悼を検証した著者は、川端康成こそは、まことに「追悼」の達人であった、と書いている。
賞賛であれ、批判であれ、印象に残る追悼文や弔辞を多く寄せていたのが、その川端康成を始めとする現代でも多く読まれている作家、例えば、泉鏡花、坂口安吾、三島由紀夫だったように感じられた。
食からみた作家論「文人暴食」「文人悪食」「文士の舌」、その番外編ともいえる文学者の妻を取り上げた「人妻魂」と本作「追悼の達人」。これらの作品は、古書蒐集と食べることを趣味(というか生きがい?)にする嵐山光三郎でなければ書き得ない、個性的で非常に優れた作家論だ。
取り上げられた文学者達(掲載順)
正岡子規、尾崎紅葉、小泉八雲、川上眉山、国木田独歩、二葉亭四迷、石川啄木、上田敏、夏目漱石、岩野泡鳴、森鴎外、有島武郎、滝田樗陰、芥川龍之介、若山牧水、小山内薫、内田櫓庵、岸田劉生、田山花袋、小林多喜二、巌谷小波、宮沢賢治、竹久夢二、坪内逍遥、与謝野鉄幹、鈴木三重吉、中原中也、岡本かの子、泉鏡花、萩原朔太郎、与謝野晶子、北原白秋、島崎藤村、幸田露伴、横光利一、太宰治、林芙美子、斉藤茂吉、堀辰雄、高村光太郎、永井荷風、火野葦平、柳田国男、谷崎潤一郎、三島由紀夫、志賀直哉、川端康成、武者小路実篤、小林秀雄
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