ルイジアナ州のニューオリンズが舞台の1950年製作の白黒映画。二枚組のDVDには監督エリア・カザンのドキュメンタリーや映画の制作裏話、マーロン・ブランドのスクリーンテスト、検閲によりカットされた公開時のものと、復元されたものの同一画面での比較など充実。映画の予告編は、公開時のものからリバイバルのものまで3編が収録されているが、予告編を見ると映画の内容がほとんどラストまで描かれているので、こちらは本編を鑑賞後にみられることを勧める。ブランドは、ほとんどの場面で肌にフィットしたTシャツを鍛えられた身体に着て登場しているが、この映画の公開後に、下着だったTシャツが普段着として使用されるようになったとのこと。ビビアン・リーの悲劇的ヒロインに同情が集まる映画だが、ブランドの役柄も野獣性と一言では片付けられず、ブランドの側から映画を見るのも一つの見方。ブランドは、年来の仲のいい友人と妻を持ち、カードやボーリングなどを楽しむ、教養はないが妻を愛し、友人思いの“普通”の男。そこに迷い込んだ義理の妹のリーによって家庭も友人関係も壊されそうになるのを、リーの過去の調査を重ねるなどして、必死に守ろうとした結果を、妻も友人も好意的にはとってくれずに、荒れていく人間関係に自分の心も荒れていく(映画の中でリーは自分の方が年下と言っているのでリーが妹で、ステラは姉のはずだが、多くの作品解説では逆になっている)。リーには、ブランドの生活を壊そうとする意図はまったくないので、リーの視点でのみ見ると、リーに好意を持たないブランドはネガティブにしか見えないところにも悲劇はある。人気舞台の映画化だけに以下のようなセリフも珠玉。“A cultivated woman - a woman of breeding and intelligence - can enrich a man’s life immeasurable. I have those things to offer, and time doesn’t take them away.” “Physical beauty is passing - a transitory possession - but beauty of the mind, richness of the spirit, tenderness of the heart - I have all these things - aren’t taken away but grow!”
一見、「キャリアか家庭か」の選択を二つの人生であらわしたような対象的なデュボワ姉妹。 乱暴で下卑た夫スタンリーに愛され養われる可憐な妹ステラ。 一方の姉ブランチは教職に従事するかたわら、失われる一家の財産と死んでゆく老人をみて自らも老いた。男色の罪に苛まれ自殺した少年の未亡人であり、娼婦でもある。 しかし、ブランチは老いても女であり、彼女の送ってきた人生は、近代化以後の一般的な女性の生き方とさして大差があるとは思えない。 無条件に夫にしたがう無垢な妻を装って、実は抑圧の少ない南部の女性にまじって確実に夫を母性でコントロールしてゆくステラのほうに彼女自身の意志と「欲望」を強く感じる。 学歴や教職、そして伝統の旧い家に縛られ、そのような周囲の圧力によって愛した人を同性愛者となじらされ、その反動で自己の女性性にすがりついて生きてきたブランチ。 他者によってつくられた女性として、その人生を翻弄された姉の「欲望」は、意志を持たぬものであり、妹の「欲望」で途中下車してみるが、もちろん意志をもって家庭内売春をし、夫という下僕を南部という有色の街で手にした白い成功者である妹を啓蒙するには至らないのである。
8ページぐらい写真入りでお得。 原作と映画「欲望という名の電車」では最後が違っています。 スタンリーがブランチを滅茶苦茶にするのをステラは見てません。 表紙はマーロン・ブランドの裸体ですが、ヴィヴィアン・リーの狂気の顔でもよかったんじゃないかな。
この本は新藤兼人監督が書いた本である。杉村春子が高齢になっても、新藤監督は映画に使いたがっていたことがよくわかる。新藤監督の妻は、女優の乙羽信子さんである。その乙羽さんも杉村春子を尊敬していたという。女優という生き物か、女という生き物か、いずれにしても壮絶な生きざまが描かれている。
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