1932年の作品は、主役の男優がかっこいい。
1941年のほうは、何といってもバーグマンの美しさ。個人的にはバーグマンの最高の作品だと思う。
歌も聞けるし、ほんの一瞬だが脚線美も見せている。
1932年と1941年の二つの作品が楽しめる。両方とも白黒で今から見ると9年の違いにかかわらずどっちもかなり古い映像なのだけれど、見比べる面白さはある。
基本的なストーリーは、ちょっと変わった科学者が、人間の悪の部分を強調させてしまう薬を開発。悪の部分を出現させるだけでなく、見た目もぜんぜん変わってしまう。
若いロンドン紳士と美しいレディの平和な結婚話から始まって事態はどんどんとエスカレートしていき、最後のアクションと悲劇へと展開していくという非常に見世物的要素の強い映画。当時の女性観客がまゆをひそめながら驚きの声をあげる様子が想像できる。
紳士としてのしがらみに抑圧され、たまにはあばずれ女とはめをはずしたいという気持ちが背景にあり、これの映画を見ている一般庶民は、「紳士ってやつも退屈だ。一般庶民が気楽でいいや」とさぞかし思ったことだろう。そんなところにこの作品の人気の秘密があるのかもしれない。
さて、僕がこの映画を見た理由は、ほかでもないイングリッド・バーグマンが汚れ役をやっているからである。裸にされ、馬車の馬にされて、鞭うたれるという(想像のシーンだけだが)、とんでもない役だ。ところが、彼女は、あばずれ女を演じるには品がよすぎたようで、32年の作品の女優のほうが役としてははまっている。
比較の話でいうと、ハイド氏も32年のほうが、猿の化け物のようでコワ面白い。41年のハイドは特に見た感じ化け物という感じはない。
ジキルとハイドと言えば二重人格の代名詞。
この本は内面から異形の怪人を解き放ってしまう怪奇小説だが、ジキル博士に悪を解き放ったことに関する後悔は感じられない。
ハイドに乗っ取られ自身が消えてしまうことにだけジキル博士は恐れを抱いているように強く感じられる。
完全に善と悪に別れる話より、徐々に自分が失われていく恐怖を書いたスティーブンはうまいなぁと思う。
二重人格ものの古典として読んでおいて損はない。短いし。
渡部昇一氏の著書「まさしく歴史は繰り返す」の中で、”高橋是清が日露戦争のための公債の引き受け手を探した時、半分を引き受けてくれることになったユダヤ人資本家シフはスティーブンソン作の吉田松陰伝を読んだことがあり、日本に強い関心を持っていた”という記述を読みました。その時、外国のインテリの知性の高さに驚いた記憶があります。まさかジェイコブ・シフ(日露戦争関連の書物ではよく登場します)も当時読んだスティーブンソン作の吉田松陰伝の全訳が今日読めるとは想像もしませんでした。訳された吉田松陰伝の部分は短いですが、著名な小説家のスティーブンソンがなぜ吉田松陰の自伝を書いたのかについて(それも日本で書かれた吉田松陰の伝記より早いという)、その経緯を詳細に調べており大変興味深かったです。松陰ファンとしては嬉しい著書です。
とにかくこの有名な書籍の映画化第一号は、1930年代の作品となる。特撮とかそういうものに関しては流石に古臭い。
しかしね、程よい緊張感があってよかったと思います。話の内容はとっぴなんですけど、こういう形で人間の二面性に迫るというのは、実は非常に面白いんじゃないかと思います。原作書いた方すごいですね。
実際に変身する、あるいは変態する作品というのは大いに人間の二面性、明と暗を深くえぐるように出来ているのでしょう。
すこしダレた状態で視聴しましたが、ラスト15分の緊迫感、あるいは緊張感は本物の名画の迫力なのだろうと思います。
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