別モンですから。見所は60年代のイタ車です。コレ観るとアルファロメオ欲しくなります。007観るとアストンマーチン欲しくなるのと一緒で。
劇場で観たときはあまりの衝撃に深く考えることを止めた。 マリオン・コティヤール、このとき32歳くらい・・・・ これは演技ではない、ピアフが憑依したに違いない(笑)。 もう深く考えるのは止そう、 もしこれが「演技」なのだとすれば、日本の「女優」についてあれこれ語る自分が馬鹿馬鹿しくなる。。。 (この国に「美空ひばり」を演ずることの出来る胆力と技量のある女優がいるか?) そうこれは「演技」じゃない、「憑依」現象だ。
すっかり本作のことを失念していたが、先日、BSで再び視聴する機会を得た。 改めて鑑賞し、このマリオン・コティヤールの演技を「憑依」として捉え、 マリオン・コティヤールという、今後世界の映像史に永く記憶されるであろう稀代の女優とその渾身の演技を、 真摯に受け止めることから逃げていた自らに思い至った。 そうこれは「憑依」なんかではない、「演技」だ。 マリオン・コティヤールという偉大な才能が、エディット・ピアフという同じく不世出の偉大な才能に迫った、 迫真の演技であり、崇高な映像芸術なのだ。
創作部分もあろうが、エディット・ピアフという個性が如何なる背景から表出してきたか、 そしてどう成功をつかみ、歌うたびに「命」をすり減らし、壮絶な最期に至るか、 (Phyllis Hymanは憤死のようなもの、Whitney Houstonも似たり寄ったり。 要するに「歌う」ということは、命数を削り歌うことであるのか?) またそんなことを知らなくても、エディット・ピアフの歌声が国籍や言語、時代を超え、 あらゆる人々の魂を揺さぶるのか、その理由を知るすばらしい手がかりになろう。 (脚本・構成が散漫という意見もあるが、文章でも映画でも偉大な作品は一度や二度観たくらいでは理解できまい)
またマリオン・コティヤールという大女優が大きく羽ばたいた作品として後世永く語り継がれよう。
Blu-ray化されたことでもあるし、改めて本作を鑑賞してみよう。
とにかくジュードロウが演じるフリージャーナリストが良い。
パニックの際にはこういうのが現れるんだということが良く描かれている。
放射脳(誤字じゃないよ)騒ぎの今,ぜひ見るべき作品。
わたしも言っておくが、お前はペトロス、つまり、『岩』である。この岩の上にわたしの教会を建てる。死の力もこれに対抗できない。(マタイ16・18『新約聖書共同訳・全注』p55 講談社学術文庫)
シモン・ペテロが彼らに言った。「マリハムは私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである」。イエスが言った、「見よ、私は彼女を(天国へ)導くであろう。私が彼女を男性にするために、彼女もまた、あなたがた男たちに似る生ける霊になるために。なぜなら、どの女たちも、彼女らが自分を男性にするならば、天国に入るであろうから」(荒井献『トマスによる福音書』p286 講談社学術文庫)
劇中映画「THIS IS MY BLOOD」は、ペテロとマリア・マグダラの対立というグノーシス的な内容らしい。そのストーリーは不明ですが、もう一人のマリア=もう一つの福音書を示すことで、ペテロの権威の相対化。保守的な人間にとって“岩”が大揺れに揺れる地殻変動に等しい事態に。
テッドは何となくぬいぐるみの熊かガマガエルみたいに見えますが、しかし、失踪した女優マリーの携帯番号を手に入れるため、彼女の親友グレッチェンとベッドをともにしたりして抜け目がない。まさに番組に体を張っている…。
死海文書発見以来、福音書をメタテキストとして読む、ないしは教会史という背景に組み込まれたゲシュタルトとして読むという読み方が普通になったと思うのだけれど、相変わらず「パッション」(メル・ギブソン監督)のようなベタな作品が作られ、子供がひしと掌で耳に蓋をして断固としておとぎ話に読みふけるような状態も見受けます。
間に出てくる宗教学者たちはいいアクセントとなって興味を盛り上げています。彼らのコメントに関心が持てないとしたら、この映画の楽しみは半減することでしょう。
フェラーラ監督は暴動が起こらぬよう落とし所を考えています^^
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