「孫」とはいわずもがな大泉逸郎の、あの名曲。 下手をすると「孫」の焼き直し、と取られかねないが、それでも出さずには居られなかった、というところに孫への溺愛感情が見られる。どこでも『じいじ』の溺愛はそんなものだろう。
だが他の収録曲も併せて考えると、これはあのコロムビア時代の「うつし絵」〜「ラブソングス」にかけての曲調に近いものを感じることができる。
ぼくもこのコンサートに行きました。入場前のロビーで、ぼくの側で雑談している人達が「美空ひばりも出てくるのでは・・」と話し合っていましたがそのとうりでした。終演後には黒い車で会場を去る美空ひばりに観客の女性数人が気付き「ひばりさぁーん」と手を振ると、美空ひばりは笑顔で手を振って答えていました。
美空ひばりが出ているからこのアルバムはいいと言うのではありません、出ていなくても思い出に残るコンサートでした。
例えば「越後獅子の唄」は聞いていて、当時ぼくは自分の将来に不安を感じていたこともあり、寂しいみなし子の踊り子を歌ったこの曲をあらためて「いい歌だなぁ・・」と、二階席に座っていたぼくは黒田征太郎の描いた障子のシルエット絵を見つつ聞いていたのが思い出深いです。岡林信康の歌もいい、自分のものにしているように思いました。
その他の曲を含めて、やっぱり買っておいて良かったと思いました。
岡林信康の1969年のデビュー作。「フォークの神様と呼ばれた人」ということしか知らないまま数年前に購入しました。あまり歌が上手いとは言えませんが、言葉がはっきり伝わってくる歌い方で、歌詞を大切にしているということがよくわかる作品でした。
ベトナム戦争や学生運動、あさま山荘事件などをあまり知らない1970年代の産まれなので、どこまで正確に歌に込められたメッセージを受け取れているのか甚だ疑問ではありますが・・・・それでも既成の価値観を否定するところに立脚点を求め、未来を自分の力で作り上げていこうという強い覚悟を感じさせる力強い歌詞は十分に感動的でしたし、またその「否定」が歌手本人の痛みを伴っていること、訴えが真摯なものであることなど、当時の若者の共感を得るに十分な衝撃的なものだっただろうと思われました。ただ世の中を「善」と「悪」、「大人」と「若者」に分けた善悪二元論で分けて考えているかのような単純さ・幼稚さも見え隠れしていて、30歳を越えた今の自分にとっては失笑してしまう部分もあります。このころの多くの学生は、自ら否定する「社会」に属する親が「社会」から受け取るお金で養ってもらいながら、「社会」を否定するという欺瞞についてはどう考えていたんだろう?というあたりに多少の興味を覚えました。
なおバックの演奏にはジャックス、つのだひろ、などが参加しているそうです。今回の紙ジャケ再発を機に買いなおしましたが、リマスタリングされ、またジャケットもダブル・ジャケットのしっかりとした作りで、十分満足できる出来栄えの商品でした。
印象は,ニール・ヤングの1970年近辺のアルバム(たとえばハーヴェスト)に似ています。バックのはっぴいえんどの演奏が志向していた音かもしれず,深みのあるねじけたアメリカのロックですばらしいです。岡林信康といえば「フォークで偉かった人」という先入観がありますが,すでに前世紀の時点で,歌詞はわかるものもあれば,わからぬものもありました。思い出と織り交ぜて過大評価されるのはややこしいかぎりで,違う時代に生活する人間が過大評価する必要はないとも思います。しかし,歌は意外にソウルフルで,これまた意外にかっこいい。個人的にはNHKの歌が好きですが,これすら昭和を知らない人間にとっては伝わらないのが,ちょっと悲しいかも。
私が考えるに、物事を表現するという営為には次の3つの過程が含まれます。
第一に自分の中に抱えている問題を発見し、それを提起するという過程。
次に提起した問題に面と向かって取り組むという過程。この時にその問題を解決できればよいのですが、必ずしもそううまくいく訳ではなく、散々悩んだ挙句にも拘らず、この問題を解決できない場合もあります。
そして最後の過程として、問題を真正面から見つめ続けた中で見えてきたもの、それはその問題の解決法かもしれませんし、その問題の側面といったそれに関わるものかもしれませんし、またはその問題とは直接関係ない別の何かかもしれませんが、そういったものを的確に表現するという過程。
この3つの過程経た後に作品が完成するわけですが、その作品の出来や質は、これらの過程をどれだけ自分に忠実に行ったかにより決まってきます。このことは簡単なようで意外に難しく、例えば作者が意識しないところで見えてきた問題から逃避している作品は実に枚挙に暇がありません。
この3過程を極限までに自分に忠実に出来る人、それは私が知る限り岡林信康氏をおいて他にいません。
勿論、その彼も全ての作品においてそれが出来ているわけではありません。代表作「山谷ブルース」もどこか斜に構えている部分があります。
しかし、例えば「手紙」は、完璧なまでにそれが出来ているのです。彼が「フォークの神様」と言われる所以は、そこにあるのだと私は思っています。
この「手紙」という作品、放送禁止歌の最たるものとして知られています。また今後岡林氏がこの作品を歌うことは無いだろうと言われています。
日本音楽史上最高の名作「手紙」は、もうこのCDでしか聴くことは出来ません。
もう、このCDでしか、今の私達には彼に授けられた天賦の才能に触れることは出来ないのです。
それでもあなたは、このCDを手に取らないでいるおつもりですか?
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