かつて、マンガ雑誌が月刊誌全盛だった時代、少年画報誌はかなりメジャーな雑誌だったようだ。 ようだ、と書いたのは、私がリアルタイムで読んでいた時代、昭和30年代後半は、少年、少年ブック、冒険王等が勢いがあった。 少年画報は、かろうじて「マグマ大使」が掲載されていたが、付録をやめたり、幾度もの誌面刷新をしたりと、部数回復を模索していた時期だったからだ。 最も隆盛していた時期を、私が記憶していない、という事情によるのだ。
多分、「まぼろし探偵」などが連載されていた頃が、同誌は最も勢いがあったのではないか。 その盛衰には雑誌の運命というか宿命のようなものを感じるし、その経緯が本書を読むと、いろいろと分かってくる。 やはり勢いのある時は、テレビドラマ化された作品が多い。
実は、その昭和30年代後半のあたりは、かなり懐かしい。 今では名前も見なくなってしまった作家とその作品たち、今では幼児向け雑誌でもなかなか見られないような紙製組み立て付録の数々等。 やはり、雑誌というのは時代と共にあった、時代とともに歩んだのだと、改めて感慨を深くした。 特に、それぞれの時代の子供の要求に、それぞれの時代なりのやり方で情報を、娯楽を、そして至福のひとときを与えてくれた雑誌の存在は、立派なひとつの文化である。
雑誌というのは、どうしても読み捨てられる運命にある。 でも、その歴史を記録に止めることには、その時代と文化を記録するという意味がある。 だから、本書はかつての子供文化、かつての少年たちの熱い魂を記録した、とても意義深い一冊なのである。
そして、どうしても知りたいことがひとつある。 チック卓という作家と、彼の「スペースマン」という作品について、どなたかご存知のかた、情報をお寄せいただければ幸いである。 「スペースマン」は読んだ記憶があり、達者な絵のSF作品として面白かった覚えがある。 しかし、どのような作家か、他に作品があるのかが、まったく分からない。 ネットの検索でも、引っかからないという状態である。
不惑を迎えた作者の世代は、「黄金バット」の背景にある60年代末のカウンターカルチャーに対しては、言わば「遅れてきた世代」である。学生運動にしても、ヒッピー文化にしても、自らが深くのめり込むにはまだ幼く、それにも拘らずその余韻は物心がついた時には充分残っており、そこから強い影響を受けている。それにべったりとのめり込んだひとつ上の世代は、一部の人間を除けば、そこで大きく傷つき、時間の経過と共にその時代と距離を置くことになるが、この世代は決定的に傷つくことがなかったが故に、逆にわだかまりなくそれを回顧することができるし、実はその時代の感覚を持続的に引き継いでいる。この作品は、そうした「遅れてきた世代」による、ひとつ上の世代に対する鎮魂歌であると共に、失われることのなかったあの時代の感覚を継承しようという試みである。あの時代の息吹を覚えている人々には、間違いなく「はまる」作品だ。
顔面紙芝居のピカさん。 子供達に絶大な人気をほこっています。ユニークな芸風で見ててとても楽しい(だろうなぁ) 言わせた〜どうだったか?
俳優は豪華、スタッフも豪華、音楽もよい。ただし、ストーリーは荒っぽいし、突っ込みどころ満載。特撮も所々チャチさが際立つ。しかし、私は大好きだ。この映画を見に、当時は禁じ手の正月をまたいで××東映に二回も見にいってしまった。しかも二回目は家族にかくれて(不良です)...あのワクワクが蘇える。無理やり理屈を合わせなくて結構だ。子供には充分おもしろかった。ナゾータワーのモチーフは今だ私の立体造型感にしっかり影響を与えている。アニメ版でイカ顔とトゲトゲが無くなってがっかりした。出演の女優さんは、同時上映のガメバルの江波杏子に一目惚れしてしまったので全て記憶からとんでいた。しかし、年月を経てまさか、防衛隊本部の聖跡記念館の近くに住むようになるとは夢にも思わなかった。日本アルプスは見えないけれど。
黄金バットは、あまた存在する正義の味方の中でも 最強だと思う。まず、決して死なない。これは すごいことである。鉄腕アトムは高々10万馬力だが、 黄金バットは、必要に応じて必要なだけパワーがある。 大地に両手を突っ込み、地球を真っ二つに割ることも朝飯前。 マシンガンの攻撃をシルバーバトンで見事に防御してみせるが、 実は弾にあたっても痛くも痒くもないタフさ。 怪物に呑みこまれつつも高笑いを決してやめない余裕さ加減。 そして正義の味方らしからぬいかつい容貌。 そして無口。 暗闇バットの「オマエは何故強いんだ?」に対して曰く、 「それは正義だ。」 究極の正義の味方だ。
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