禅的生活 (ちくま新書)
禅という現代人にとってとっつきにくい分野について、噛み砕いた表現で読み手に理解してもらおうという著者の意図が感じられる良書だと思います。
この著者は臨済宗の副住職でありながら、西洋の哲学などについても造詣が深く、洋の東西を問わず深く万物について考えてをめぐらしています。
ただそのためか、逆にわれわれ一般人からすると、本書の内容がやや難解に感じさせる原因にもなっていました。
個人的には、本書は哲学書に分類するのがもっとも適切だと思います。
無常という力―「方丈記」に学ぶ心の在り方
数ある宗教の中で仏教は比較的穏やかな宗教だと一般的には思われるかもしれないが、本書を読む限り、仏教も大変厳しいものがあるということを再認識した。
本書で著者は以下のように言っている。因みに著者は福島から遠く離れた安全な場所で発言されているのではなく、正しくフクシマにてこれを言っている点は付け加えておく。
「しかし(放射能に)悩まずにいようではありませんか。自分が感知しえないもののために
うんざりするのは仕方ないが、わざわざ悩みを深める必要はない」(55頁)
「放射線量は低ければ低いほどいいという考え方があります。しかし、じつはそうではないかも
しれない。」(60頁)
著者のこういう発言を科学的な見地から見て正しいかどうかは不明である。本書で著者が引用している科学的データや科学者の発言に関しても、それが正しいかどうかを判断出来る知見が僕には無い。
但し、著者は科学として上記を発言したとは僕は思わない。仏教という立場で放射能を語っていると僕は読んだ。
本書で著者は鴨長明の方丈記を読み解くことで、仏教というものの厳しさを説いている。全ての執着心を捨て、「執着心を捨てた自分」すらも捨てなくてはならないという仏教の在り方がそこにはある。
その場所から今回の震災を見直した場合に違う風景が見えてくるということなのだろう。上記発言に関しても「放射能が体に悪いかどうか」という科学的な見地を突き抜けたその先で、「放射能という煩悩からどうやって抜け出すのか」、「放射能に執着する心」をどうするのかという問題を提起している。全ての人は遅かれ早かれ死から免れないという状況の中で、善く生きるということは何なのかという問題に組み立てなおしたとしたら、あるいは上記のような発言も可能なのだろう。
それをフクシマという場所で著者に言わせているのが仏教の厳しさであり、同時に仏教の勁さでもあるのではないだろうか。それが僕の読後感である。
現代語訳 般若心経 (ちくま新書 (615))
般若心経の現代語訳と解説の本。
仏教に興味があっても、なかなか入門書探しは難しい。特に若い人にとっては文章も古く、共感しにくいものが少なくない。入門するにもその門が狭いということは否定できないだろう。
そこにこの本が出てきました。
お経というものは深い意味を持っていて、それは普遍的な人間の悩みや生き様についての尊い教えが含まれている。
仏教に限らず他の宗教でも色々な派ができている。それら新しい教えに人が集まるのは当然かもしれないが、その陰で変わらずに人の心をとらえてきた、古びない考えがあります。
難しいことの一切ない、広く通りやすい、そして深い門というべき一冊です。