愛着理論と精神分析
フロイトの愛娘アンナ・フロイトの直系、
言うなれば正統フロイディアン伝承者
ピーター・フォナギー。
この人のやっていることは、一言でいうと、
「なんとか精神分析を実証科学に結び付けられないか」
ということに尽きる。
本書は、臨床的な精神分析理論と実証的な愛着理論の共通点を探り出したもの。
主な精神分析の理論を総ざらいして、愛着理論との共通点と相違点を整理し、
最後に精神分析理論と愛着理論を統合させたフォナギー独自の理論である、
メンタライゼーション・モデルを提唱して、
この本は終わる。
他にもフォナギーは、愛着の世代間伝達の研究をやってみたり、
精神分析の効果であるところの「内省力の増大」
を「リフレクティブ機能尺度」で測れるようにしたりだの、
涙ぐましい努力をしている。
どんな努力だって?
精神分析が現代科学から取り残されて置いてきぼりにされないように
するための、必死の努力です。
この努力を我が国の精神分析家たちにも見習ってほしい。
まじそう思う。
そうしないと生き残れんよ、日本で精神分析は。
35歳バースデー・コンサート
1971年から1981年の10年間は北山修にとっても日本にとっても大きな10年だったのでしょう。
25歳のときの若さとエネルギーの息遣いが聞こえてくるライブとは趣が異なっています。
小田和正の「花のように」だけでも聞く価値あり。その後歌詞が変わってしまった「さよなら青春」も貴重。
再CD化を心より期待する
最後の授業――心をみる人たちへ
万葉集の防人歌が、後世の人たちのために謳われたのではないように、北山さんも個人のパーソナルな思いを詩にしていたのですが(p.39-)、フォーク・クルセダーズの解散記念につくったアルバムをちょっと売ろうかと思ってラジオに持っていったらその中の『帰ってきたヨッパライ』が270万枚売れてしまった、というんです(p.68-)。そこで味わったのが、自分の歌をコピーして売りに出すと手元になくなる、という実感だそうです。
もうひとつ、ここらあたりで語られている「セルフモニタリングの時代」という考え方はハッとさせられました。現代人はデジカメ、ビデオその他で「離見の見」でなくても自分を第三者的に見ることが簡単にできるようになりました。そして、こうしたセルフモニタリングで最初に感じることは、自分自身の醜さではないでしょうか。ぼくも最初にテープで自分の声を聞いた時の狼狽は忘れられません。
でも、最近は北山さんも書いているように、例えば写真映りが悪いなんてことは考えずに、映りの悪いデジカメのイメージはどんどん消すようになっていきます。これを北山さんは《セルフモニタリングの時代といっても、結局いいところばかりとっている》《セルフモニタリングの時代になって、今、日本人の自己イメージが結構よくなっているのではないか》(p.63-)と指摘します。映画の編集作業で「あ、これ消しちゃおう」といって良いものだけを残していくようなプロセスぱかりを進めるとセルフモニタリングが「自惚れ鏡」になってしまう、というあたりが素晴らしかった。ちなみに「自惚れ鏡」という言葉は佐藤忠夫さんの『映画をどう見るか』講談社現代新書にある「映画は民族や国家の自惚れ鏡である」からとったそうです(p.79)。
有終の美 in Tokyo
きたやまさんのトークや、観客の拍手をほとんどカットしてあります。
曲の大半は加藤和彦作品です。
やはり加藤さんを思い出しますね。
加藤さんを想って作られた3曲目の「早く逝こうとする君」や、新しい歌詞も加わった12曲目の「イムジン河」は、歌詞を確認したかったです。
歌詞カードがついてない点で☆1つ減らしました。
覆いをとること・つくること―「わたし」の治療報告と「その後」
カウンセリング場面で話をきくことがメインになるが、どこまで聞いてよいのか、聞きすぎることの危険はあるんじゃないという疑問からこの本を購入しました。
たとえという言葉を生で話させることからの包んで話すということの視点はとても大事にしています。