にら焼き屋を営む働き者のお母さんと、てれんぱれんのお父さんと過ごした町に40年ぶりにもどってきた主人公は、昔の知り合いだという女性に声をかけられる。子供のころの父との秘密「てれんぱれんさん」に関わることをできるだけ避けてきた彼女は、その女性に対し、胸騒ぎを覚え憂鬱になってしまうが、その女性に関わることで、父の思わぬ秘密と思いを知ることになる。
なぜ、父がてれんぱれんだったのか、女性の明かした話と、逆らうこともせず黙って消えていく「てれんぱれんさん」への主人公の叫びに、思わずほろっとさせられました。長崎のあちこちには「てれんぱれんさん」の影がたくさんあるのかもって思わせられました。
4篇のうちの「聖水」が芥川賞受賞作ということで読んでみました。 とってもよかったです。 何がって?4篇ともに内容がいいのです。 特に「聖水」 長崎の作者だけに隠れキリシタンの末裔と思われる人々の現実の生活 のことをよく取材して書いています。
”隠れキリシタン”は今もこのようにして残っているのかもしれないと 思わせる雰囲気を十分に表現しています。
今現在の長崎のカトリック教徒とはどう違うのか? なぞな部分は残っています。 本当はどうなのか? 知りたくもなります。
そこで、青来さんの次なる作品を読んでみたくなります。 手に入りにくいのが難点です。新作を期待しています。
漢字一文字をタイトルとする短編集である本書は、そのタイトルがテーマそのものとなっており明快この上ない。わかりやすい、そして自分の心に馴染みやすいがゆえ、哀しくもあった。長崎市役所の原爆関連の部署で働く作者らしい視点、そして忘れ目を背けたい一方で、決して風化させまいとする努力が伝わってきた。人間はいつの時代でも人間であるしかないのだなと改めて思う。
しかし、なぜ日本における「きりしたん信仰」というある種特異な中心地に、世界で二つしか投下されていない(今のところ)原子爆弾は炸裂したのか。祈りと怒りが静かに渦巻く土地、長崎。何か悲しい運命を感じてしまう。
本作は青来有一氏による谷崎潤一郎賞及び伊藤整文学賞を受賞した短編集である。
「長崎原爆」と「キリシタン」という2つの共通したモチーフを背景にし、現在を生きる主人公達を描く。
個人的に最も深く心に残ったのは「虫」である。
直接被爆した主人公は、心身共に深い傷を負いながらもなんとか立ち直る。
しかし自らが負った傷の為にまた傷つき、さらには人をも傷つけてしまう。
そして人を傷つけてしまったことに、また傷ついてしまう。
そんな傷の連鎖の中、主人公が犯すたった一度の過ちは、さらに深い傷であると同時に唯一の救いとなり得たのだろうか。
また、本書の中で唯一異色とも思えたのは「蜜」である。
他の作品と背景を同じくしつつも、語り手はそれらをまるで「他人事」として遠まきに見ているのである。
本編の主人公は不謹慎な女性であることは間違いない。
しかし彼女こそが読み手である我々に最も近い存在ではないだろうか。
ある意味、最も考えさせられた一編である。
本来、九州の方言は、活字にすると陽気な明るさを持つことが多い。
しかし本作の語り手達がつむぎ出す言葉は、素朴な暖かみを醸し出しつつも、心に冷たく重く染み入るようだった。
それは、語り手達が決して強い人間ではなかったからかも知れない。
本書を通じて「戦争反対」という直接のメッセージはなかった。
ただ弱い人間が傷つき、その傷の先で起こった出来事を、淡々と書き綴ったフィクションである。
過去の記憶を未来へと送り続ける新しい手段として、是非読まれ続けてほしい作品。
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