クラシックは、 詳しくないけれど
'91 没後 200年 記念の時、 テレビで 観て・・・・・
内田 光子さんの 弾きっぷりが こびり付いちゃって DVDを 探して 輸入版を 買って、 とりあえずは 満足していたんだけれど インタヴューを 字幕つきで みたぁ〜い
いやーー凄いです。 この方は・・・・・・ DVDなのに すごい すごいって 何回も 拍手しちゃうもの......
著者のいう「国家の崩壊」とは、ちょうどEUのように国境という概念が消えているような形態を指している。したがって、本書の中で言う「ポスト近代国家」というような表題としたほうが正確である。
著者は、明治維新後の鎖国から急発展した日本、そして敗戦後の日本の目を見張るような経済発展を賞賛している。その上で、日本こそアジアにおいて「ポスト近代国家」になりうる国であるとし、そのためには韓国や中国とともに「アジア共同体」というような意識を持つことが大切であるとも言っている。
また、本書はアメリカについて多くを割いている。20世紀後半に、パックス・アメリカーナとして世界に平和をもたらしたアメリカの力は明らかに衰えを見せている。これからは、「パックス・グローバリズム」として、土台作りをはじめるときであるとしている。
ひところもてはやされた「グローバリズム」に相通じる考え方であるものの、著者の分析はこれからの国家論とでもいうべきものである。
今、わが国では、近隣諸国特に中国とは、経済の関係が深いにもかかわらず、互いにいい関係とはいえない。韓国とも同様である。過去の歴史から見て、難題は多いものの、相互依存を深める経済を考えれば、EUとまではいかないまでも、新たな関係作りを考えるときかもしれない。
文学、音楽、絵画など芸術を鑑賞する意味は、それにより、自分の人生のあり方を 問い掛けられるということである。 時には、自らの生死の問題にまで及ぶことさえあろう。 人生が変わる場合もあるかもしれない。 それがなくては、芸術の意味はない。単に楽しみのためだけの芸術と呼ばれるものは、 畢竟、芸術足り得ないのである。ピアノ芸術に限っても、同様のことであろう。 現在のピアノ演奏の技巧は、もはや来るべきところまで来てしまった感があり、 超絶技巧的な技量の持ち主は数多く存在するのであるが、彼らの中で、 聴き手に対して、人生について問いかけて来るようなピアニストは稀である。 われわれは、結局なぜ、芸術音楽を聴いているのであろうか。 そして、ピアニストはいったい、何のために演奏しているのだろうか。 もちろんBGMでありはしない…。 これは聴き手の勝手な聴き方の問題ではない筈である。 演奏者が演奏する「意味」を持ち、聴き手がその意味をどう受け取るかの問題である。 内田光子の音楽には、常に緊張感がまとわりついている。 一世を風靡した彼女のモーツァルト・ソナタの演奏においてさえ、 お気楽に楽しむことができないものがある。 だがしかし、どの演奏にもわれわれに迫り来る「問いかけ」がある。 このようなピアニストは、現代においては、希有で貴重な存在といえる。 ところでこのシューベルトの演奏は、数ある内田の演奏の中でも出色のものと言える。 死を意識し続けたシューベルトの薄幸の人生が、内田の音楽性とぴったり 符合することがはっきり見てとれる。 これは、D.784やD.845の冒頭の楽章を聴いただけでも感じられる。そこには「意味」がある。 それにしても、これらの演奏を聴いていると、内田光子の日常とはどのようなものなのか、 つくづく考えさせられてしまう。このような演奏を可能にしてしまう彼女の日常生活は、 特別な何かの意識に支配されているはずのものであるからだ。 自身の俗な日常性とは無関係に、崇高な芸術性を生み出すことができるのは、 モーツァルトのような天才だけである。モーツァルト的音楽家は、 もはや出現することがない現代において、内田のこのシューベルト演奏の記録は、 現代のピアノ芸術の特別な意義を示していると同時に、 芸術性と俗性の関係性の問題を呼び起こしてくる。 だから、この録音が、極めて優れた歴史的名演の記録となることは疑いがないであろう。 それほどの演奏であるのだから、お気楽には聴けない。 しかし、お気楽に鑑賞できないものこそが芸術なのである。
中学生時代にブラスバンドをやっていたせいもあってクラシックは欠かせない存在でした。受験勉強の合間に聞いていたのを思い出します。 思えばあのころクラシックを聞いていたから受からないであろう受験校にも合格したと思います。
グールドと比較すると興味深い、内田光子の ベートーベンは初めて購入したが新鮮
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