新リヤ王は上下巻買ったのに上の数ページでまったく読めなくなった。それ以来高村薫は敬遠していましたが、今回合田雄一郎がでるとの内容紹介に引かれ購入。一気に読めました。確かにミステリーではなく、被疑者と合田の心理描写がえんえんと描かれているので、犯人探しとかフツウノミステリーを期待するなら読む価値はまったく0でしょう。
ただわたしはここにでてくる戸田というひとを自分なりに想像した時に、表面的ではあるかもしれないけれど、ずっと孤独で来たまじめな人が、初めて自分を待ってくれる友人と言うものを得たと思ったときに、そこから受け取ることができるちょっとしたこころの浮き立ちとか、あってほんの数日しかたたないのにその人に感じてしまったかもしれない義理とか、そういうのになんかやられてしまった。
けど最終的には救いのない話だったけれど。
でもきっとそれが現実に一番近いのかもとかおもってしまったりする。
なのでずっと敬遠してたけれど、今日は「太陽を曳く馬」上下巻を注文してしまった。その結果がザンネンなものだとしても、「冷血」はそれをおぎなってあまりある後味を残してくれたように思う。
宮崎哲弥氏と、宗派の異なる仏教の若手(?)論客5名との連続対論を収録したものですが、興味本位で本書を手にとってしまった評者にも、快い読み心地を楽しむことができる著作でした。(Amazonで目次だけでなく中身も何ページか閲覧できますので、そちらも参考にして頂ければと思います。) 仏教に関する知識がほとんど皆無である評者には教理に関する議論が深く理解できたとは思いませんが、宮崎氏の鋭い突っ込み、それに対する各論客の切り返しは、読み応え十分でした。 読み始めて先ず感心したのが、宮崎氏の仏教に関する知識・理解の大きさでした。 TV評論家として氏の顔を知っている程度だったこともあり、その彼が仏教の深い教理について、仏門の人たちと対等(以上に?)に遣り取りするのには、当初は正直驚きさえしました。 しかし、読み進めるうちに、宮崎氏の尖った感じよりも、それを受けて立つ仏門者の方々の余裕のある軽い身のこなしの方に、寧ろ惹かれるものを感じました。 ただ、最後の対談者である林田康順氏の死刑制度容認論に関しては、俗臭が否めず、少々残念でした。
映画を見る前にみたのですが、あらすじもわかりやすく早く見たいと思った。
20世紀を貫いて21世紀に至る壮大な三部作サーガついに完結。本作も、現代美術、死刑、宗教に挑む高村薫の執念と信念が結実した傑作。
圧巻は「オウム真理教を宗教と認め得るか?」という討論。「あんな太ったグルはおりません」という言葉は痛快だが、そこに至るまでの、道元、マックス・ウェーバー、インド哲学を駆使した法論にはただただ感服の一言。「1Q84」に於いて同じオウム真理教を扱った村上春樹が「物語の力」を信じているのであれば、高村薫女史は「問い続ける近代的批判精神」を信じているのだろう。直観が必要な現代美術や神秘体験の抽象化が必要な宗教的世界の存在を認めた上で敢えて人は問い続けていかなければならないのだという覚悟の重さがそのまま本作の重厚さなのだと思う。
そして最終章、彰之の手紙は「晴子情歌」冒頭へと回帰する。少女の晴子が見た七里長濱の情景。境界も定まらぬ空と海と砂嵐の入り混じった白明の中、砂丘を渡る清々とした風の音、そして行きずりの雲水たちが唱えてくれた四弘誓願の声と持鈴の音が聞こえてくるような感動的な完結である。
決して読み易い小説ではないが、合田雄一郎も帰ってきたし、「新リア王」で離れてしまった高村ファンにも読んでいただきたい。
必ずしも未解決事件の真犯人に迫っているわけでもないが、確実に事件の核心をついているような気がする。
題材はグリコ・森永事件だが、警察無線の傍受、「部落解放同盟幹部」からの脅迫テープ、アベック襲撃事件、週刊現代記者が指摘した「株価操作説」など、かなりディーテールな要素まで盛り込まれている。
そして、事件の不可解性、複雑性。解放された際の江崎社長の憔悴しきった顔は、誘拐だけによるものとは思えず、かなり重い何かを背負っているとも思わせるものだっと記憶している。
社長が背負ったものとはなんであったか、犯人グループは何によって結ばれ、何を目的としていたのか、レディジョーカーはそういった疑問の核心をついている。
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