新幹線のなかで読もうと手にしたこの本。とても読みやすく、しみじみしました。高齢者とはどんなことを考えて、日々過ごしているのか、片鱗が感じられます。自分もあっという間に、同じ立場になるのだろうと思うと、とても勉強にもなります。まだご存命で、今年で92歳とか、驚きました。寿命と健康って、不思議ですね。
表題作は著者の自伝的作品。ただしこの時期に受賞した芥川賞のことには一切触れられていない。「息子はその母親の子供であるということだけですでに充分に償っているのではないだろうか?」 九日間、精神病院の甘酸っぱい臭いのする部屋に、母の最期を看取るために主人公は閉じこもる。安岡章太郎の描写するいたたまれなさ、やるせなさ、いきばのなさ、やりきれなさは天下一品だ。恥辱文学の金字塔とでも名付けたい。時間を交差させ、五感に訴えかけるように父への嫌悪、母への愛憎を描き切った。
個人的なことだが、私は高校生の時に収録作品の「俄」の主人公と同じような体験をしたことがある。夜中にとてつもない爆音で目が醒めた。耳の奥で虫らしきものが暴れまわっているのだ。鼓膜の真横、目の真後ろ、脳の真ん中で巨大な音を立て続けているのだ。恐怖のあまり泣き喚く私と、慌てふためいて応急処置を聞こうとメディカルセンターに震える手でダイヤルする母。センターの指示は三段階だった。まず光で照らすこと。これは短編とは違って効果はなかった。次に煙草のケムリで燻し出すこと。そこで父に煙草のケムリを耳の中に吹き込んでもらった。虫は苦しいのか全力で暴れ出し、私は叫び声を挙げながら爪先立ちで部屋中を駆け回り発狂寸前となった。最後の指示はサラダオイルをストローで耳に流し込み、それから水泳のあと水を抜くように、オイルと虫入りの耳を下にしてケンケンをするようにとのことだった。サラダオイルと共に、足元に落ちてきたのは、てんとう虫ほどの小さなカナブンだった。このようなエピソードでも読者諸氏のお役に立てれば幸いである。
この本はずっと以前から買おうか、どうしようかと迷っていました。が、買ってよかったと思いました。八人の著者はいづれも そうそうたるプロの作家達。作品が素晴らしいのは当然といえます。大人向けの本と違うのは綺麗な水彩画が載ってること。 難しい言葉や古い言葉は欄外に絵入りで説明が付いていること。いままでに読んだ作品も載っていますが、まったく違う感覚で 読むことができました。子供たち、そして毎日の生活に少し疲れた大人たちにお勧めです。
この本に関しては、大塚英志と三浦雅士が、まったく違う文脈から、江藤淳の「アメリカと私」「成熟と喪失」と対比させて紹介していたので、興味を持って読んだ。時代は違うけど、日本を離れてアメリカで教鞭を取るという立場に立ったときに(あるいはその後に)、「第三の新人」に目が行った、という共通点である。そっちの話は長くなるので置いといて、この本、村上春樹の取り上げる作家、作品のチョイス、あるいは作家評、作品評の語り口が、村上春樹自身の作家性、小説観を照射するって仕組みになっていて、凡百の村上春樹論より、ずっと村上春樹を理解出来てしまう本なのだ。 この本の中には、村上春樹自身の“原風景というのは、いわば比喩的に、他の風景を通してしか語り得ない”という言葉があるけれど、 それにしても、ここで取り上げられた作家たちの小説スタイル、文体を表現する際の、村上春樹の直喩の巧さには舌を巻いてしまう。 この本は、「第三の新人」たちのそれぞれにユニークな作家的資質を知ると共に、村上春樹自身の作家としての才能にもあらためて気付かされてしまうのである。
とても素晴らしい本です、前半、人間の生活とは本来こおゆうものなのでは?と実感させられます。実際あった出来事なのでかなりリアルです。
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