亞神の首領である天音(あまね)が登場し、タカヤを不二へといざないます。タカヤは不二の里に到達します。天音を求めねば(信仰せねば)超えられない幻夢の森を天音を求めることなく超えて。天音はそんなタカヤに一抹の不安を覚えますが、タカヤの力に頼らざるを得ない。天音の冠は鬼幽の冠と同じデザインというのも意味深です。
桃源郷を統べる天音は「人が求めるべき理想の神」ですが、本人はそれ以外のあり方など思いもよらないような単純なところもあります。ひたすら善意を提供する過保護者として君臨する神です。天音の力の源が不二の里の人々の一心の祈りという「支持票」というのも意味深です。それに比べると、威神の首魁である鬼幽や不二の里から飛び出して己探しを続ける亞神の律尊は、惑う神・複雑な神・孤立した神です。
律尊から一切の判断を任されたタカヤは、不二の里のあり方を認めつつも自らを委ねられない「個人」として惑います。
悪とはいえ生きる活力を与えてくれる威神、盲目的支持が必要だが平穏を与えてくれる亞神、それらから離れた異邦的なヤチ王を前にしてタカヤたちがどういう結論に至るのか・・・という非常に複雑な物語です。
この巻ではますます物語は進展する。不二の里に入った鷹野は空子都という真魔那と出会う。不二の里での人々の暮らしも描かれる。また、青比古たちはついに桂たちと再会。しかし…。透こは鬼幽の命で不二の里に潜入を試みるが、その麓の森では…。そして、鬼幽が何を知りたがっているのかも、鬼幽自身の口から透こに語られる。
この巻はいろいろなストーリーが同時進行しているので、7巻の次に好きな巻。
空子都の理想はわかるが、個人的な感情もかなり優先していて、そのやり口は私にはやはり汚いと感じられる。空子都の過去を考えると気の毒だし、理解してあげたいとも思うのだが、イティハーサの中では珍しく好きになれないキャラクター。
八百万の神々が生きていた古代日本。
「目に見える神々」
の戦いが繰り広げられていた。
さらに、「目に見えない神」も存在した。
地味に真面目に生きようとする人間も神々たちの戦いに巻き込まれる。
「ソイヤッ!ソイヤッ!ソイヤッ!」
の祝詞を唱え、神に味方され味方する人間たち。
だが、主人公は、善の神が与え給う永遠の幸福をラストに拒否する。
苦悩する不幸な人生を真面目に地味に生きることこそが、人間の生き甲斐である。
幸福という餌で人類を脅迫するふざけた神はイラネ。
人類の進化をテーマにした、日本SFマンガの最高峰とも言える傑作。《サイエンス》と言うより、より《スピリチュアル》な観点から、人類の進化を描いたのは、まさに女性ならではの発想だと思います。《神秘主義》と《科学》の融合に成功した、非常に希有な傑作だと思います。
なんという物語なのだろう。 まだ、余韻が消えない。きっと一生、消えることはないだろう。 この物語の語ることは、生きるということの根源に関わることだから。 人とは何か? 神とは何か? そうして、神とは必要なものなのか? 善とは何か? 悪とは何か? そうして、悪とは排除されねばならぬものなのか? 人は、善のみで生きていくものではない。 そしてまた、救いは一つではない。 それぞれに、それぞれの生き方があり、それぞれの救いがある。 こんな壮大な物語を、こんなにも美しく描ききる力。 そう、小説でも映画でもない、「マンガ」というメディアで あればこそ表現できた物語。 私は「マンガ」のある国に生まれたことを本当に幸せに思う。 この作品に出逢えて、本当に良かった。
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