原作にストーリー性が加味されていますが、話の軸はブレてません。
この部分を蛇足と捉えるかどうかで、かなり印象が変わると思います。
個人的には良かったです。
もちろん原作を知らなくても楽しめると思います。(好みの問題ですが)
病人の自我の揺らぎを詩人が言葉として並べていく。
そんな作品が並びます。
感性とは何だろう。
そんな問いかけがあったときに、
感性の有り様をもっとも端的に示す小説が、
梶井基次郎の作品群であります。
「檸檬」は青年の死への恐怖と鬱屈を、
爆発的な鮮やかさで切り取った名作ですね。
伊豆の山中の深閑とした描写と、
夜の静寂に流れる水音がきれいな、
「筧の話」が一番好きです。
この人の感性は図抜けていたと思います。
「過古」について書こう。この作品で思い浮かべるのは、二人の作家の二つの作品だ。一人は芥川龍之介で、「蜃気楼」。もう一人は太宰治で、「雪の夜の話」。
「蜃気楼」も、「過古」も、暗闇の中に光る、かすかな光りが印象に残る話だ。「蜃気楼」の世界は、私が生きている世界に似ている。これはあくまで〈たとえばなし〉である。私はいつも、真っ暗闇の中にいる。人に何か聞かれる。私は何か答えようとして、言葉(それは、単語だ)を捜す。暗いから、マッチに火をともす。このとき、もし、風が吹く(つまり、何か外からの刺激を受ける、たとえば、電話が鳴る、とかする)と、私は困る。ただでさえ、私は言葉を見つけるのが遅いのである。そのうえ、何か外から刺激があったりしようものなら、マッチの火は消える。したがって、私が捜していた言葉が何なのか、私には見えなくなってしまう。暗闇のなかでは、一本のマッチの光さえ、救いとなるのだ。
「雪の夜の話」には、難破した若い水夫の網膜に、燈台守一家の団欒の光景が写っていた、という話が出てくる。「過古」には、燃え尽きたマッチの火が、消えてもなお、しばらく主人公の目に残像として残った、という一節がある。芥川、梶井、太宰はマッチと目とを介してつながっているのである。してみると三人は、かすかな光を守り続けた作家たち、と言えるのかもしれない。
いまだに丸善の画集コーナーには時折「檸檬爆弾」が仕掛けられている。 それは、半分冗談なのかもしれない。 でも、梶井の焦燥、不安は、いまだに僕らの焦燥、不安でもある。
青春の峠を越えたあたりで、多くの若者はこの檸檬的な焦燥感にかられる。 普遍的でいてとても個人的、言いようの無い不安感。
みすぼらしくて美しいものに惹かれるこの気持ち。 「不吉な塊」のように迫りくる焦燥感。 本当によくぞ書いたと思う。
しかも、肺病やら、借金やらにまみれているにもかかわらず、文章が全然湿っぽく暗くなっていない。 おそらくそれは、ひとえに読者のビジュアルに訴えかけてくる、彼の卓越した文章センスにあるのかもしれない。 カンナの花や花火の束、八百屋の店先が彼の叙景で鮮やかに目に浮かぶ。 その周りの空気感までをも感じることが出来る。
・・・・
少し、大げさな物言いになるけど、梶井基次郎が「檸檬」を書いていなかったら、 ちょっと生きていけなかったかもしれない若者は少なからずいるんじゃないかな?と思う。
自分もそんな若者だった頃がある大人として、「檸檬」をお薦めする。
高2のときの国語の実力試験、本文は梶井基次郎の『愛撫』だった。「猫の耳というものはまことに可笑しなものである。薄べったくて…」から始まるその文章を読んでいて、思わずその不思議でおかしな内容に、試験中にも関わらず笑い出しそうになってしまった。ふと気が付くと、クラス中のみんなが笑いをこらえながら問題を解いているのに気が付いた。そしてベルが鳴った後、全員が言った。「この続き、読みたい!」 授業で『檸檬』をやって、その鋭い風景の切り取り方、感じ方に魅せられてはいたが、まさかこんな作品があるとは…と、思わず買ってしまったのがこの短編集『檸檬』である。繊細でどこか艶かしい、そして時々とても素直な基次郎の世界を堪能できる一冊だった。一つ一つは短い話だけれど、凝縮された内容は読み応えあり。ただ、人によって好きなものと嫌いなものが混じっているように感じるかもしれないので星4つ。
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