TVドラマとは思えない出演者の演技と脚本です。
ぜひ買ってください。
藤原竜也の目、こめかみの血管、年齢を思わせない
北大路欣也の剣さばき(竹刀は北大路欣也自身で
撮影に持ち込んだ重めのもの)、小澤征悦の殺気、
どれも見ごたえ十分です。
第37回放送文化基金賞の2部門受賞、おめでとうございます。
吉村昭の歴史ものの作品では、主人公の波乱万丈の生き方が描かれ、多くはその晩年までが、淡々と、また生々しく描かれている。その透徹した歴史観・人生観のなせるわざであろうが、その吉村昭自身の最期が描かれたものである。
妻として、作家として、さまざまな思いが当然胸のうちを駆け巡ったであろうが、強い意志で貫かれた作品にしあがっている。
吉村昭の壮絶な死にざま、それを暖かく見守る津村節子・・・たやすい言葉で評価することがためらわれる、感情の発露ともいうべき作品である。 妻である筆者は、吉村昭の一生を作品として完成させたといえよう。
あほう鳥しかいない無人島から 力を合わせ船を作って脱出しようとする人々。 知恵を出し合い、計画を練り、こつこつ作業を進め、 どうしようもないことは神に託す。 絶望したり望みをもったりしながら何十年。 船の材料はすぐには手に入らないけれど 何年にもわたって、うってつけの材料が少しずつ流れつく。 うまく出来た話のようだが、 ほんとうにあった話だというのに感動した。 励まされた。
映画の撮影技術で最も基本的なものに“カットつなぎ”があります。様々なシーンをカットとしてつなぎ合わせることによって,瞬時に時間的な経過や空間を表現することができます。 例えば,「家を出るシーン」の次に「目的地のシーン」をつなげれば,移動時間が省略され,その間の出来事は視聴者の想像力に委ねられることになります。 一方,1シーン1カットという手法は,視聴者に臨場感と緊張感を継続させ,視聴者をその時空に引き入れるという効果を持っています。本作の相米慎二監督は,この長回しの1シーン1カットを実に効果的に使用する監督として知られています。 本作では,房次郎が俊一の喫茶店を訪ねるシーンやマグロを捕えようとするシーンにこの手法が使われていますが,違和感はなく,適度の緊張感を保っています。ただ,この手法では役者の力量がかなりのウエイトを占めますので,キャスティングが重要となります。本作では緒形拳がほぼ完璧にこれらのシーンをやり遂げており,役者としてのすごさに感動します。 作品的には“マグロを釣る”という行為自体はあまり意味が無いようですが,相米慎二監督の作品ということになると,この行為は“生死をかけたもの”へと変化します。一瞬にして生から死へと転がり落ちる可能性のあるところで生きる人々,そのような人々を彼は捉えようとしているのです。 本作は,何度か映画化が試みられた末に断念されてきた,吉村昭の原作を相米慎二監督が壮大なスケールで描きあげた傑作で,下北半島最北端の漁港を舞台に,巨大マグロとの死闘に命をかけた男と,ひたすら寡黙に待ち続ける女たちの壮絶なドラマです。
なんとも不思議な作品だ。 認知症の娘が持ってきてしまったどこかに埋められていた封筒を持ち主に返してほしいと依頼される占い師・ほのか。 突如現れる言葉を話せない書道家・ルゥイィ。 描くことを忘れてしまった画家グローク。 絡み合っていく三人の過去、傷、想い。 だがだが、その表現の仕方が実に不思議。 どう形容したらいいのだろうか。 良いも悪いも実に日本映画的。 好き嫌いも結構はっきり出る作品かと思われる。
無名・地味な俳優が大半を占め、僕が知っている俳優さんは主演の吉村涼と根岸季衣、小野寺昭のみ。 でもお芝居の上手な方ばかりで、結構楽しめました。
特に主演の吉村涼が素敵。 「渡る世間〜」の印象が強いかもしれないが、僕的には「パパは年中苦労する」の時のイメージの方が強いってな子役からのある意味ベテラン。 主人公のほのかを愛らしく、さわやかに演じており、とても好感が持てます。 こんな女優さんがもっと増えれば、日本映画はもっと楽しくなるかな、なんて思います。
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