セゾン・グループ総帥の回顧録。 経営者としての堤清二と、詩人・作家としての辻井喬のあいだにある"職業と感性の同一性障害とでも指摘すべきズレ"(P.335)、これがこの回顧録の読みどころである。
文学者としての辻井喬については評価は差し控えるが、ビジネスマンの私としては、経営者としての堤清二は果たして何を成し遂げた人なのか、この点に大いに興味があって、読売新聞・日曜版の連載を断続的に読んでいた。これが一書にまとまったのは、連載をすべて読むことの出来なかった読者としてはたいへんありがたい。 1980年代、セゾン・グループがまさに絶頂に向かいつつあった時期にビジネスマンとしてのキャリアを開始した私にとって、セゾン・グループの栄枯盛衰はリアルタイムで観察してきたビジネス・ヒストリーであり、また芸術文化関連の愛好家、つまり消費者としては高校時代以来、セゾン・グループが提供してきたさまざまな恩恵を受けてきたことに感慨深いものを感じるためだ。
文学者として表現することは経営者にとって何であったのか、ビジネスマンである経営者にとって文化事業とは何であったのか。 もちろんこうした設問は、第三者が客観的に評価することも可能である。だが、文学者でもある経営者自身が、当事者としてどのようなことを思っていたのかを述懐した回顧録は、ふつうの経営者には書くことのできないものであるだけに、たいへん興味深く読むことが出来るのである。 「・・その時、僕が眺めていたのは、精神性を大事にする人の世界と、毎日を実利の世界に生きている人との、音信不通と言ってもいい断絶であった。それは僕が常日頃ぶつかっている断絶でもあった」(P.132)。 この断絶はさらに拡大しているのかもしれない。少なくとも経営者においては、いつの時代においても両立しがたいものであることは間違いないからだ。
本書でとくに印象深いのは次の一節である。 「世の常識が指摘するように、芸術家と経営者わけても財界人とは両立しないのである。もっといえば両立してはいけないのである。それをあたかも両立するように僕は主張したことがある。・・(中略)・・芸術家が政治家として成功するとしたら、それは独裁政治だからだ。だから財界人や政治家に望むのは、芸術や文化に理解を持ってほしいということだけで、それ以上ではない」(P.64) これは反省に基づく述懐なのだろうか。だとすれば、図らずも著者がどういうタイプの経営者であったか、問わず語りに示していることになる。
小売流通業という、大衆相手のビジネスに従事していながら、現代詩という必ずしも大衆を相手にしない文学形式で表現していた文学者の精神とは、そもそもが両立しがたい。 この大きな矛楯が、ある局面ではビジネスのロジックを超えて邁進したビジネスを成功させ、またそれゆえにビジネスのロジックを逸脱して爆走する結果ともなった。 したがって、セゾン・グループの破綻は、ある意味においては、免れ得なかったものでもあった、といえるのではないか。
本書は、さまざまな局面を切り抜けてきた経営者の、経済と政治、そして芸術にかかわる事件と人物を中心とした回顧録である。 しかし、この回顧録は辻井喬という文学者の名前において執筆、出版された文学作品として受け取るべきなのであろう。
"バブル経済"とひとくくりにされがちな1980年代を理解するための、その前史を知る意味でも貴重な回顧録であるといえよう。
生前の白洲次郎氏を知る、多様な人々がそれぞれが捉えた“白洲次郎という男”について語っている本である。美しい写真が多数掲載されている。それは白洲氏の愛用品であったり、彼の暮らした家であったり、彼自身の写真であったりする。青年時代の白洲氏も、忙しく働いていらした頃の白洲氏も、お歳を召されてからの白洲氏も いずれもとてもハンサムで、そしてチャーミングだ。趣味の良さにも ため息が出る。ロンドンで誂えたタキシード、合わせるサスペンダーは美しい赤。なんてお洒落なんだ! けれどおそらく、彼がそれらを身につけたときには「お洒落してますっ!!」という様子は 全く見られなかったのではないか、普段から着ているかのように身になじんで粋だったのでは、と想像する。
語られる白洲氏のエピソードはどれも楽しく読める。とてもユーモラスなエピソードもあり、思わずにやにやしてしまうほどだ。とても魅力的な人だったんだろうなあ、でも敵にまわしたらこっぴどくやられちゃうんだろうなあなどと想像してしまうほど、人々が語る“白洲氏像”はイキイキとしている。白洲氏に少しでも興味のある方は、特にプライベートの白洲氏に興味のある方は 必見の一冊である。
50代以上の読者にとっては一読の価値のあるとても面白い「読み物」です。タイトルは「ポスト消費社会のゆくえ」となってはいますが、もちろん学術関係の書籍ではなく、むしろ経営者堤清二氏の心象風景がうかがえる面白い対談集です。一気に読んでしまえます。上野女史の忌憚の無い、しかもユーモアのある鋭い突っ込みで元・新興成長企業の二代目経営者の素顔が、更には文人辻井喬氏の素顔が垣間見えてきます。
素直に心象風景を吐露している場面が多々あります。
1960年代から1990年代後半までの日本の百貨店業界の発展と衰亡を時間軸に、親子の葛藤、経営者の孤独、企業と文化、企業イメージ、リーダーシップ、経営と政治、雇用の在り方、消費者論など話題はどんどん展開していきます。
同じ時間を社会人として過ごしてきた中高年以上の読者には興味が尽きません。
外から一消費者として見てきた西武百貨店流通グループの総帥が何を考えてそして感じて行動していたのかその一端を垣間見ることができるというだけでも価値はあります。その意味で一種謎解きのような面白さもあります。
お堅い経営学の本を読むよりためになるかもしれません。
残念ながら、実母や継母のこと、たくさんの兄弟姉妹のこと(特に堤義明氏のことあるいは西武鉄道のこと)にはまったく触れないか、少ししか触れていません。まぁそれだけでも優に何冊かの本が書けるほど話題の多い一族ではあります・・・。
ちなみに鼻持ちならない自慢話は殆んどありません。
意外と素直に話し合っているなぁという感じを受けます(色々な思惑から対談後、相当に筆は入っていると思いますが)。
上野女史というキャスティングが功を奏しています。
ひとりの百貨店経営者の戦後史、それも結果的に経営者の心象風景が印象的な面白い読み物と要約できるのではないでしょうか。
文学者で経営者。しかも、西武!
なので、叙情と闘争。
ミシマ、アイゼンハワー、キシ、マッカーサー、シュウオンライ。
山川の歴史の教科書に、太字で出てくる人たちです。
そんな、ヤバイ人たちとの交流。
面白く読みました。
~この作家が誰であるかということは、知っている人は知っているし、少し調べれば誰でも知りうる。 彼は実父の「どうしようもなさ」に悩んだのであろう。それは他の作品にも度々描かれる家庭を顧みない「父親像」に現れている。 その「どうしようもなさ」への尽きぬ思い、そしてもしかしたら自分も(そして兄弟も)父に似てしまったかのではないか?との疑~~念が彼の頭を離れることはなかった、ように思う。 開き直ってしまえば気にしなくても良いのかもしれない「どうしようもなさ」を抱えながら生きていく術として彼が選んだ「書くこと」。 形を変え、時代を変え、関係を変えながらも、彼の作品に通底するのは「どうしようもなさ」。これは「やるせなさ」であるのかもしれない。 矛盾を抱え、モラルを問い~~ながらも、「生きていくしかない」と言うこと。それが彼にとっては「終わり無き祝祭」であるのだろう。~
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