農夫の妻みきが、夫、息子と自分自身の原因不明の体の痛みのために加持祈祷を頼むことになり、自ら加持台(神が降りてくる台)となる。だが、加持台となったみきの口から出たのは、誰も予想していなかった言葉だった。 「元の神である。実の神である。みきの心をみすまして、世界の人を救けるために天降った。この屋敷、親子もろとも、神の社にもらいうけたい・・・・・・返答せよ」 みきは、神の命ずるままに、苦しむ人々に施し、富裕であった中山家の財産はどんどんと減っていった。人々はみきに狐がついたと思い、親戚は離れ、長男の結婚は破綻する。 作者は次のように書いている。この言葉のままかどうかはわからないが、みきが考えていたことの本質はこうだろう。 これから十年間は貧のどん底におちなければならないと、神様はおせきこみです。それも、私の心がたかぶっているから、貧におちなければ、人さんを救いあげられないからでしょう。貧はつらいもの、悲しいものだけれど、その貧におちなければ、私は心貧しい人になれないでしょう。 みきの言葉に素直に耳を傾ける人々が現れたのは、神下りの実に二十五年後である。 みきの過酷な試練を考えると、悟りを得てから約20年乞食行をした大燈国師 の修練もはるかに苦労のないことに思えてしまう。家族と共に貧しさに入り、人々の疑いの目の中で、食べるものがない状況でも施すという生活は、最も峻烈な禅の修業でさえ、その足元にも及び得ないものではないだろうか。 みきの口から出た神の言葉は、常人の域を遥かに超えて崇高である。ハンセン氏病の人の膿をなめて癒したというような逸話が数多くある。また、みきは七十五歳のときに、七十五日間の断食を行っている。既成の宗教の中で出現した人であれば、聖フランシスコや良寛のように、世の中で広く尊敬を集めたに違いない。しかも、この二人を越えた人であったのではないだろうか。
芹沢光治良の神に対する考え方が書かれていますが、私がこの本を読んでの感想は、天理教に対する批判を強く感じました。 私自身、天理教に対しての知識がないので勉強になりましたが、ますます宗教と言う団体に抵抗を感じてしまいます。 作者も本で述べていますが、宗教とは個人で信仰した方が望ましいと、私も思いました。人は集団になると悪いことを考える人が現れ、お互いに注意し合わないと必ず悪の方へ進んで行ってしまいます。作者は常に客観的な立場で物事を見る事が出来るので、大変素晴らしい人だと感じられます。
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