以前に中学校のクラス合唱で聞いた、「翔る川」という曲を探していて、ついに見つけました。 他の曲もよかったです。
私は、このボックスに収められた作品は、すべてテレビで放送されたものをビデオに録画してあったので、購入を少しためらいましたが、ほんとうに買ってよかったと思っています。というのも、私たちが、これらの作品を繰り返し見るのは、市川崑という不世出の映像詩人による、独自の美的世界を堪能したいからで、それを再現するには、DVDの高画質が、やはり有利なようです。「悪魔の手毬唄」のオープニング・クレジットの深い緑を基調とした寒々とした感じや、「女王蜂」の茶会の場面を彩る女優さんたちの和服の柄など、やはりクリアに再現されていると思います。特典映像(予告篇、市川監督と石坂浩二の対談など)も貴重ですし、加藤武へのインタビューでは、加藤さんが我々に向かって「よしっ、わかった!」をやって下さいます。
今回の『七瀬ふたたび』の最終回は、撃たれた連中はことごとくこと切れたのか、それとも外傷性ショックで気絶しているだけなのか。TV放映ではそこをはっきりわからせずに終わってしまった感があって、観終わった直後はすっきりしない、気分の悪い思いだけが残ったものですが。
あの後七瀬たちはどうなったのか?
それは視聴者のご想像にお任せします、ということであるのならば、僕は、彼らは皆、あのあと病院に搬送されて一命を取り留めたのだろう、と解釈します。
そうでないと…
傷害罪の容疑者とはいえ、両手を上げている無抵抗の人間を一方的に射殺した平凡な警官は、人殺しの罪を一生背負って生きていかなければならなくなるし、七瀬たちを撃ったのがあの根性の曲がった透視能力者だとしたら、超能力を悪用するような人間は、もはや人間性の矯正不可能な殺人鬼にしかならない危険な存在だから、逮捕できたら死刑にしてしまえ、で済まされてしまいかねない。
あの状況で死んでしまったのだとしたら、七瀬たちは精神的苦悩からやっと解放されてそりゃ幸せかもしれないが、後に残された殺人の加害者には、なんにも救いがないのでしょうか。
自分一人の手に負えない精神的な苦痛から解放される方法は、「死ぬ」ことしかないのだ、という安易な結論には同調したくないので、僕は、七瀬たちはあの後きっと救助されたにちがいない、と信じることにしました。
退院した七瀬は『ふたたび』、自分にできることを精一杯まっとうとして生きて行くことでしょう。そうにちがいない、と思えることができれば、超能力を持たない無能力者の僕も無能力者なりに、もう少しこの世で、自分なりにできることを精一杯やって生きていこうかな、と前向きな気分になれます。
平成の七瀬は、孤立無援の異端児では終わらないさ。絶対に。
例えば、一緒にテレビドラマを見るとか、同じ月を見るとか、つぐみとまりあの何てことない描写が、何故だか、とてつもなく懐かしい気持ちを誘う作品でした。
子供から大人への過渡期で、何かを失ってしまう淋しさと、新しい何かを得る胸のときめきなど、10代のみずみずしさが描かれていてよかったです。
名作の映画化。
高名な医者である華岡青洲が母親と妻の二人の人体実験によって、「麻酔」を使った手術に成功するまでの、嫁と姑の愛憎を描いている。
こういった、心理は女性でなければわかりにくいかもしれない。
息子に対しての母親の愛情と意地、妻としての愛情と意地がすさまじい。女と女の心理的な戦い。台詞にも怖ろしいほど女の嫉妬と憎悪が表れる。
その狭間の葛藤は身震いするほど。演じる人間が美しければ美しいほど、怖さが増す。高峰秀子はさすが。若尾文子の色香がにおうほど、姑が憎む気持ちが高まるのもわかる気がする。女として息子と寝ていると思うと、生理的に許せないのだろう。間に入った雷蔵も、二人に挟まれては、この作品では添え物。
息子は年老いた母に対して、少量の麻酔薬を配慮して飲ませる。そのことが分かった時に、姑は、嫁に「敗北」したことを知る。
嫁は、薬の実験が体に害を及ぼしていくのだが・・・
華岡青洲は麻酔による手術が成功して、さらに高名な医者になっていく。
彼の墓は大きく立派なものだが、彼の妻と母親はその裏にひっそりと建てられた。
近年では、NHKで和久井映見、田中好子、谷原章介版のドラマシリーズが放映されたが、こちらもなかなかのもの。
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