幼児誘拐犯の側から擁護的に描かれていて内容が内容だけに物語に賛否が分かれると思う。
どんな理由があれ罪は逃れられないが、人の感情は一様ではなくそこに生まれたドラマは興味深い。
不倫相手の子供を堕胎しその妻の子供を誘拐しその中で母性が芽生えていく。
例えそれが逃避行を支える為に芽生えた母性であったとしてもどこか儚くその愛は美しく見える。
そして親になる準備ができずに自分の子に手をかける犯罪もあるが、それは準備ではなく親になる覚悟なのだとこの映画は語っているようにも思えた。
邦画の中で数奇な運命を描いたドラマの中では秀作の部類に入ると感じた。
映画の冒頭の法廷で希和子が謝罪ではなく感謝を述べた理由を全編を通して納得できスタッフロール直前の真っ黒な画面を観ながらスーッと涙が流れた。
映画を観ていて感じたのが、出演者たちの迫真の演技。
主要キャストの井上真央さん永作博美さん、渡邉このみちゃんの演技だけでなく、脇役の小池栄子さんが味のある演技をしていて驚かされた。
バラエティのコントなどで器用なタレントになったなと思っていたら名前だけじゃなく女優として歩んでいたのだなと感心させられる演技だった。
逆に劇団ひとりさんがバラエティのコントっぽさをかもし出していてそのシーンだけどこか浮いた印象を抱いた。
どういう経緯でキャスティングしたのかわからないけど、この作品の中で唯一と言っていいほどのミスキャストに私は感じました。
全体的に高いレベルで演技がされていたのでストーリーに集中して観る事ができました。
そして、逃亡先の場面場面に映りだされる風景がとても綺麗。
女性をターゲットにした画面作りを意識しているようでこのようなテーマを扱っていながらどこかホッと息を出せるシーンを意図的に組み込んでいるように感じた。
シリアスな展開で息が詰まるだけでなく息を抜く間を効果的に作っている高度な編集をしていると私は高く評価しています。
これだけ高評価していてなんで☆4なのかというと、タイトルの八日目の蝉と内容が観た後でもスッキリとしない。
映画として上手くまとめていたように感じた一方でこの「八日目の蝉」というタイトルに踊らされてどこかモヤっとした感じが残る。
「おくりびと」みたいにわかりやすいタイトルにしていたら、もっと多くの人に観てもらえたのではないかと今も残念に思う。
ほのぼのとしているようで、実際にあり得る話で一晩で読んでしまいました。
著者は男性なのに文体や描写が女性のようで「オリンピックの身代金」も非常に面白かったですが
異なる文体で書けるところがすごいと感じました。
考えさせられたり、同感したりとても面白かった。
希和子のメロドラマになっていたドラマよりは全然よかった。
誘拐された側、恵理菜が主人公になっていて、共感しやすい。
恵理菜の本当のお母さんが人相悪すぎること以外は配役もいいと思います。
小豆島のシーンは情感があって、虫送りの場面は涙を誘うほど。
でも、希和子が悪い事をせざるを得なくなった背景、(父が死んで天涯孤独になっていたこと)があいまいなのは、うーん・・・。
第一章と第2章がごちゃ混ぜになって話が進むのが分かりづらい!
細かいことだけれど、千草が自分の過去を打ち明ける時に泣きながら話すのが不自然でした。
愛情にはスゴイ力があるけれど、愛情だけでは人を育てられない。そのことをバランスよく描かれている原作(小説)には、やっぱりかなわないですよね。
ツイッターのアカウントや文章が文章のあちこちに登場し、ネットでつながる若者文化をベースにした、 まさに若い人でないと書けない、現代のあたらしい小説だな、と思った。
この不況の中で就職活動に挑む学生たちの日常と、社会人になる前のジレンマを題材にした小説。
ネット社会を当たり前として受け入れ、便利なモノがあふれた世界を生きている若者たちは、 のっけからノリが軽く、人生の舵をとる大切な就活にもどこか「生活を賄うための必死さ」みたいなものがなくて、 社会人が読むと、学生時代特有の甘さの出た世界に、最初は辟易とするかもしれない。
私も、読み進めて中盤以降くらいまでは、あー、いやだな、いやな感じの人たちだな。 海外で留学を経験しただの、バンドをやってるだの、舞台をやってるだの、 なんだかきらびやかに学生生活をエンジョイしている感じが、 学生たちの自己顕示欲を次々と見せつけられている感じがしたからだ。
主人公も好きになれないし、周りの人たちもお互いを牽制し合っていて、 誰の「本気」も見えないような気がしていた。
それは痛くて、いたたまれなくて、見ていられないような、こっちが恥ずかしくなるような感じを引き起こした。
しかし、後半以降、この小説はそれだけじゃないな、と思った。
自分の能力や、今までやってきたことの努力の過程を、結果は無くても認められたいと思うこと。 人と同じ、ひかれたレールの上を走るんじゃなく、自分だけの個性で生きていきたいと思うこと。 必死にあがいてもがいている同世代の友人を、分析してこきおどすことで、自分が一段上みたいな気持になること。
お互いの本当の気持ちが、会話からむき出しになるにつれて、痛いように見えた人たちが、 たまらなく切なく思えて、「分るよ」って言ってあげたくなった。 今はしれっと社会人の顔をしている私も、同じような痛さがあったし、今もあると思った。
人間として若者から大人へ変わる瞬間、下手したら大人になってもひきずるような類の、 あえて言葉にしないような自己顕示欲のもがきを、すごく上手に表現していると思う。
他人と他人がてんでばらばらの目的で交差している社会の中へ、 複数で決められた方向へ進んでいた学生たちがぽんっと放り出される時の、 自分が動かなければ何も始まらない、何も注目されないあの感じ。
著者はリアルタイムで感じてきたその瞬間を、今しかない、そのかけがえのない若い感性で、 切り取るみたいに正確に作品にしている。
少なくともモラトリアムに浸る余裕があり、それぞれの生き方が自由で多様化した時代に 就職活動をした世代までは、共感することも多い小説ではないか。
「直木賞」という箔がつくと、いろんな世代や立場の人が読むことになるから、評価は二分するだろう。 作品は多少荒削りで、痛い、見たくない感情が起きる小説だけれど、それでも就活生のみならず、 多くの人の気持ちに、すいっと食い込むとても優れた何かを持っている小説だと思う。
西村賢太の文体はユニークだ。
主人公が置かれている状況というのは、非常に悲観的状況で、本書の中にも表現として出てくるのだが、「落伍者」としての主人公が登場していて、すなわちそれは作者のかつての西村賢太自身のことでもあるということなのだろう。
そうしたタイトルの『苦役列車』ということからも分かるように、『蟹工船』的な悲惨さが漂う作品かと思いきや、読み始めから何やら文体にユーモアがあり、「悲劇的状況」がそうは感じられないという効果がある。
この「ユニークな文体」を、未読の人に説明するにはどうしたものかと考え込んだのだが、「講談風文体」とでも表現するのが相応しいのではないかと思えてきた。
本当に講談師が、講談をしているような感じなのである。
この「講談風文体」によって、西村賢太はある種の「寓話性」のような「救い」を小説の中に取り込むことに成功している。
決して劇的な結末が用意されているわけではないが、読後感は「さらり」として印象を残す。
作者の西村氏は、愛すべき人間というような人では決してないのだが、そもそも作家業というものは変人のような人がしてきた仕事でもある。
だから、作者自身に人間性なるものを求めるのは、本来的な作家の性質とは真逆なことのようにも思える。
であるから、どうか作者自身に嫌悪感を抱かないで、西村賢太の作品を読んで欲しいものだと願う。
作品とは、それ自体自立して離れていくものなのだから・・・。
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