北さんは大腿骨骨折のあと肺炎でまた入院し、退院したあとは娘さんの地獄のリハビリが待っていた。そしてハワイだ、スキーだ、熱海だ、箱根だ、紅葉だ、ゴルフ見学だと娘さんらに盛んに連れ回される。(ゴルフ見学は絶筆)山梨や山形で開催された「どくとるマンボウ昆虫展」での講演、麻布中学の博物班でフクロウと呼ばれた先輩との再会なども楽しい思い出であったろう。 4日前まで元気にしておられ、あっけない最期のようだったが、幸せな晩年だったのでしょう。「マンボウ家の50年」と題した奥様の手記もファンなら必読。
本書は、「珍しく沈んだ書きだし」という章からスタートしています。昆虫マニアとして天真爛漫に虫を追いかけてる少年だった著者が、旧制松本高校で寮生活を送るうちに行動が一変してしまい、人生の意味を問うて思いつめる青年になってしまった姿を対比させているのです。 以下、初めに空腹ありき、教師からして変である、小さき疾風怒涛、瘋癲寮の終末、と戦後の食糧難の時代を背景にした著者の青春が語られます。 そこには、ウツボツたるパトスを持って夜を徹して議論する先輩たちがおり、人生について真剣に考える寮友たちの様々な生態がありました。 印象深かったのは、読んだ本のページ数を記録する寮生の話で、彼はページ数の合計がどんどん増えていくのを生きがいにしていました。数字を増やすために活字の大きい本を読む、という方向へ脱線した彼は、とうとう、ページ数では飽き足らずに読んだ本の文字数を数えるようになりました。文字数を数えて記録・合計することに時間を取られ、内容を理解する余力もなくなった彼。 そんな変なヤツがたくさん生息する寮生活というものを知り、なぜか私は「自分も寮に入って青春したい」と決意してしまいました。 苦しい受験生活を送り、私が入ったのは旧制高校的なバンカラの雰囲気がかろうじて残る5人部屋でした。この寮で先輩から寮歌を教わり、寮生集会で政治的立場が正反対の民青とカクマルが議論し合う場面も目撃しました。 この本を読んでいなければ、寮に入っていなければ、私の青春は全く違った彩りになっていたでしょう。本書は、間違いなく私の人生を変えた1冊です。アマゾンでも最も売れている北杜夫の著作、というのも納得します。 嵐のような青春を送った後、著者は父・斉藤茂吉と同じく医者と文学の道を歩みはじめました。自分が何者かを確かめる期間を青春とすれば、本書はまぎれもなく青春を描いた一級のエッセイです。
どくとるマンボウ北杜夫氏のファンは、文学作品を好む「幽霊派」と エッセイを好む「マンボウ派」に分かれるという。 レビュアーは初めて読んだ北杜夫作品が本書であったので、以後マン ボウ派となった。 マンボウ氏は子供の頃病を得て入院し、そのとき昆虫図鑑を眺めて過 ごしていたことで昆虫に目覚め、やがてカナブンブンを特に好むムシヤ (虫屋=昆虫採集家・マニア)になったという。 そんな虫の話もさることながら、航海記で全開だったホラ話がここで も読める。レビュアーは小学生の頃にこれを読んで、ムシヤにならず雑 学に興味を示すようになってしまった。 実はこれらのホラ話こそが、マンボウ氏のユーモアはもちろん博識さ を物語るものだということに気づいたのはずっと後のことである。 「医局記」に出てくる、博学だが決してひけらかすことのない先輩の 姿がマンボウ氏とダブって見えたのであった。
学生時代に出会いました。この本から北杜夫にどっぷりはまり、新潮から出ている本はすべて購入しましたが、「どくとるマンボウ航海記」が結局一番だったと思います。何を書いても素直に受け入れる気持ちになれるのは、日本作家では珍しい優れたユーモアセンスのおかげですね(才能ゆえ鬱病になるのですが・・・)。本当に面白い本ですし、薄い文庫本ですから出張の電車の中で読むのにはぴったりなんですよね。前向きで明るい気持ちになれること受けたいです。旅に出たくなるという副作用もありますが。
なだいなださんら、北さんをよく知る各界の著名人をはじめ、さまざまな立場の方が、北さんへの愛と追悼の意を表した、追悼特集。 兄の茂太さんと、北さんが兄弟で行った対談が載っています。ここで、茂吉のことを、どんなふうに呼ぶか、と論議しているところが面白い。北さんは「茂吉は・・・」と言い、兄の茂太さんは、「親父(おやじ)」と呼ぶ。北さんの心の内が伝わってきます。北さんは、兄の茂太さんのことも、ちょっと遠慮して呼んでいますね。おもしろい。 北さんのはすべて読んできた、と思うくらいなのに、まだこうした、未見の文書が出てくるあたり、ちょっと貴重で、おもしろい本です。 北さんのご冥福をお祈りいたします。
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