私は、この作品を、当時の教育界の状況を知ろうとして読み始めたのであった。しかし、それ以上にこの作品の現代的な内容に気付かされることとなった。
この作品に扱われている時間は、昭和三十一年春から翌年五月までの間である、と新潮文庫版(下)で解説の久保田正文さんは書いておられる。朝鮮戦争特需はあったものの鳩山首相の時代であり、池田首相の所得倍増計画(三十六年一月)には間があって国民の生活はまだまだ貧しかった。戦後の民主化は、朝鮮戦争を目前に大きく右旋回し、教育の中央統制も強化されていった。この作品の舞台のS県も地方財政危機に陥り自治庁の支配下に置かれつつあった。教員の首切りが、それを口実に強行され、それはとりわけ日教組の活動を弱小化し、保護者からも切り離そうとする方向で進められた。それに対し教師達は、子どもたちをすし詰め教室から開放して血の通った教育を実現するために、父母とも手を携え自主的で創造的な教育を実現しようと、教育研究集会への取り組みとも合わせて労組の運動を進めてゆく。主人公のふみ子は、炭坑と漁業の町でまだまだ多かった貧しい子どもたちをはじめいろいろな子どもたちを教え導きながら自らも教育の何たるかを身につけてゆくのであるが、他方で、彼女に対する首切り反対から始まって、離婚して去った夫が、第二組合作りという裏切りに走るのを見たりするなかで、教育の場における教師の団結の大切さ、組合運動の役割を自覚するようになって行く。
ひるがえって、現在の教育危機といわれる状況を見てみると、時代と具体的状況は異なるとはいえ、共通の課題が描かれているように思える。文部省の支配が強まり、教育の場に持ち込まれようとする競争原理のもとで、子どもたちは分断され格差をつけられようとしている。教師は、仕事量が増え、強化される管理、一部保護者からの突き上げなど大きなストレスに晒されている。労働組合の組織率は低く、自己責任で何とかすべきと考える教師が増える。他方で、責任回避策を身につけた教師も増える。私見では、これを打ち破るのは連帯を強く意識した労働組合の再構築しかない、と考えるのであるが、それは、まさに主人公ふみ子の探し当てた道である。あの時代の教員がどのような状況に置かれ、どのように行動したか、などを振り返るとともに、状況の違いを超えて、今現在の教育界の問題を映し出す鏡としても読める作品である。
昭和30年の小学校の教師の目から見た敗戦後の日本は貧しさから抜け出ていなかった。様々な因習と戦い、戦後の民主主義教育を守ろうとする主人公は、「金八先生」の原型のようだ。多くの無名のこのような貧しくとも努力をおしまない教師に対して作者は限りない賞賛を送っている。また、同僚の教師、組合活動、政界の様子が活写され、それは、今もあまり変わりがないように思える。戦後の教育政策の貧しさの源が分かる。そして、今もその源は衰えを見せていないことを読者は気づくであろう。
戦中に書かれた作品であり、おそらく反戦とか反日とかは全く意識していなかったと思われる。人間として兵士をとらえる、その兵士の気持ちになってみる、そういう視点で書かれた作品ではないだろうか。そして真に迫りすぎた上、発禁になった。そういう本だ。
南京大虐殺関連で「大殺戮の痕跡は一片も見ておりません」という否定派としての言質がとられているが、その人がここまで描いていた、という点に注目すべきであろう。「大」虐殺ではないが、虐殺は描いているのである。よき夫であり父である心優しき人たちが、いとも簡単に非戦闘員の命を奪っていく。それはやはり狂気だ。いかにして兵士は狂気に染まっていったのか。その描写が真に迫る。
戦時下だなぁ、と思わせたのは、南京を落とした後、転戦していく兵士たちの士気が高いように描いている点。首都・南京を落とせばこの戦争に勝てる、故国に帰れる、だから兵士たちはがんばっていたはずだ。南京を落としても戦争が続くことに兵士たちは落胆していたはずである。士気が高いままであった、というのはウソだろう。著者は戦意の高揚をねらってこの本を書いたのである。
全共闘時代が時代設定にあるお話。
江藤顕一郎という成績優秀、頭脳明晰、見た目も申し分ない法学部の学生が自分のエゴイズム、地位・金を求める過剰な上昇志向ゆえに人生を踏み外してしまうという話。
江藤は、資本主義社会を弱肉強食の荒々しい世界だと捉え、法律という武器を身につけることでこの世界で生き残り勝ち上がっていこうと考える。
行動は非常にエゴイスティックで実利的・打算的である。
司法試験合格を目指しながら、資産家である伯父の令嬢と結婚し遺産を獲得することで安定した地位を得ようと行動していく。
家庭教師をしていた際に教え子だった登美子と関係が続いていて、彼女の方は江藤を愛しており、家庭の問題もあり他に頼るものがいないことからも江藤を求める。しかし、江藤は彼女のことを肉体的な欲求を満たすための女としてしか捉えておらず、伯父の令嬢と結婚するために登美子との関係をいずれ一掃しようと考えている。
江藤は自分の人生計画を達成していく上で、様々な策略を実行していくが、最終的にはそれがすべて破綻し、道を踏み外してしまう。この江藤という人間は、自分を含めて多くの現代の若者と重なるイメージを持っている。上昇志向が強く、エゴイスティックであり、倫理観が低く、そしてある特定の分野以外には全く無知で社会を経験的に知っていないにも関わらず、自分は万能であると考えている。そしてそれゆえに失敗する。道を踏み外す。
彼の母親が彼に言ったように、「何よりも大事なのは、誠実さ」、これがこの本のメッセージの一つであり、自分や若い世代が身につけなければいけないものだ。
生き方としても、成功していくという意味においても長期的にみれば誠実さは欠かせないものだろう。
著名人・成功者やアニメ・漫画・小説でかなり極端な生き方がかっこいいようにもてはやされ、多くの若者に支持されることが多いが、現代はかなり「危うい」考えの若者が増えているのではないか。
読んでいる時に、何度も自分の事を考えさせられた。
生真面目で実直な登場人物が、意図し意図せざるして、汚職構造を作り上げていくさまを、丹念に描いている。緊張感と切迫感がありありと伝わってくる。組織を逸脱できない堅物な人間が陥る先を、抉り出すように描いている。骨太な登場人物は、山崎豊子『華麗なる一族』と双璧をなす。
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