書籍、スポーツ、ドラマなど、言葉が名言として残り、人を支える。
それらの言葉を集めた「名言集」の出版も続く。
が、「平和のための」というジャンルはなかった。
東京大空襲を体験し、子どもにおとなに絵本や映画などとなる原作を著してきた早乙女勝元さん。
10年を迎えた東京大空襲戦災資料センターの館長でもある。
企画から5年を経て、平和の糧となるさまざまな名言・名句が、一日一言366ページにまとめられた。
魯迅、毛沢東、石川啄木、山下清、朝日茂、ヘレン・ケラー、マザーテレサ、ネルソン・マンデラ、さだまさし、東ちづる、相田みつを、ブータン国王など、幅広い。
国境と年代をこえ、歴史を踏まえて平和を紡ぐメッセージ集。
未来が見えづらいいま、言葉の重みと想像力をかみしめて。
8月だけの報道や関心、「8月ジャーナリズム」ではない平和の糧として。
多くの人に届け、言葉を未来へつなぎたい、
友達から朝食をやめるようにそして水を飲むことと言われていたがこの本を読んで納得しました。それから実践しています。この本を読んだら健康について今までの考え方が変わると思います。ぜひ読んで健康で明るく楽しい毎日にしましょう。
私の祖母は東京大空襲で亡くなりました。祖母と曾祖母、大叔母、そして私のおじさんおばさんになっていただろう小さい人たちも。
このことを私に語り継ぐきっかけとして、母が選んだのがこの本です。
私にとって、とても大切な本。多くの、小さい人や大きい人に読んで欲しいです。
東京大空襲。ヒロシマやナガサキ、そしてオキナワの悲劇と同様に語られなければいけない史実だとは思うが、
ほとんどの人は知らないだろうし、知ろうともしないだろう。
ページをめくるごとに居た堪れなくなる。
当時の日本国民があわれになる。必死になって国家の言うとおりに、敵と対峙しようとする姿は、
今見ると滑稽さと悲惨さがないまぜになってしまう。多分当時でも上手く立ち回る人間は安全なところにいたのだろう。
亡母が横浜生まれで学童疎開や空襲などのことを話してくれた。子供心にも恐怖で仕方がなかったと言っていた。
学童疎開先では食料の不足、家族と離れて暮らす事の寂しさ、そしてお決まりのイジメ。
余りの恐怖に家族で疎開しようとして、北国に来るまでの困難さ。
前書きにある昭和7年発行の水野広徳の「興亡の此一戦」をなぜ軍部は発禁にしたのか。
発禁にするのであれば、これを否定できる対策をなぜ取らなかったのか。今更の事ながら愚かだった。これは軍国主義ではない。
軍国主義は、国家の総力を挙げて戦争を遂行すること。これはセクショナリズムでしかない。
そして、いつの時代でも悲惨な被害を被るのは弱者である。
それにしてもなぜルメイに勲章をやったのか?ずい分前にこの事実を知ったときには激怒した。
本書の内容をなす「東京大空襲」とは1944年3月10日未明にアメリカ空軍B29の大編隊による東京下町の民間人大量殺戮作戦である。アメリカ空軍の資料には、この作戦は空前の大成功として記録され、日本人の戦意を喪失させたものとされている。もちろん、猛火の下を逃げまどった東京市民は聞き捨てにはできない。わずか2時間半ほどの間に死者だけでも10万人を数える惨害は太平洋戦争下の最大の悲劇に数えられるべきものである。しかし、この大空襲に関する日本側の調査や記録はきわめて乏しく、歴史書の第二次大戦に関する記述でもほとんどの場合わずか数行で終っている。この空襲の「成功」は民間人への軍事攻撃を正当化することによって、その後の60余の地方都市への空爆、さらには広島、長崎への道を開いた。 本書は焼夷弾の降りしきる下町のデルタ地帯を逃げ惑い、死の一歩手前でからくも命を取りとめた庶民たちの貴重な証言からなっている。当時、少年であった著者自身もその証言者の1人である。だから彼らの証言はついに死の手から逃げおおせなかった人々の地底からの証言でもある。読者は本書によって猛火に追われて逃げ惑う群集の1人としての擬似体験をする。そして戦災の実相について無知であったことを恥とするだろう。なぜ無知であったのか。一つにはそれを求めて知ろうとする世論が生まれなかったからであろう。記録は乏しい。空襲下の東京は老人、女性、児童が大多数を占める銃後であり、また生き残った人のほとんどが立ち直る暇もなく生活苦の中に投げ出されたのである。しかしその背景には、当時はもとより戦後になっても、その全貌を明らかにすることを望まない日本政府の方針があった。アジア諸国に対して自らも加害者であった日本は国民の立場からの発言を封じることを望んだのである。 東京大空襲の全体像については米国側の記録が詳細である。本書の終わりに近い第5章「米空軍の”火攻め”戦略」は米空軍の計画的な残虐性を明らかにしている。日本の武器製造は家内工業だから民家と工場は混在していて識別不能という取ってつけた理由を上げて民家の密集地帯の爆撃は戦略上やむをえなかったとする。一口に焼夷弾といっても各種ある。ナパーム弾(油脂性焼夷弾)、M69型(通常の焼夷弾)、黄燐焼夷弾、エレクトロン焼夷弾など、それぞれが異なった場所で異なった性能を発揮して市民を追いつめた。被爆者の体験では空襲が開始されるとまたたく間に深川、城東、本所に火の手が上り、目標とされた地域一帯は火の輪で囲まれ、そこをめがけてB29が焼夷弾の雨を降らせたという。このことを含めて加害者と被害者の間の証言の間には食い違いが少なくない。 忘れてならないことはこの東京大空襲以降、広島、長崎の原爆投下にいたる米空軍の戦略を指揮したルメイ少将が日本政府から勲一等旭日大綬章を授与されたことである。1964年12月のことである。「日本の航空自衛隊の育成に努力した」というのがその理由である。何度となく「もうだめだ」と思いながらなんとか生き延びた1人の女性は「一人っきりでも生き残ったからこそ家族の冥福も祈ってやれるのよ。一家全滅よりはましよ。だって、国はなんにもしてくれませんでしたものね」と述懐している。
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