主人公が少年であるので、立原にはめずらしく女の情念がドロドロしてこない。主人公は大人びていてちょっとかわいげがないともいえるが、厳しい自らの生をまっすぐ見据えて立つ姿勢は見事。身を切るように冷たい中で、清澄な輝きを見せる冬の早朝のような読後感だった。とくに中・高校生から大学生に薦めたい。
この作品の文学的印象は別の方がいろいろ書いておられるので、
女性の生き方という視点からちょっと拙い感想を・・
これはいまから35年ほど前の小説、全共闘時代のころの話で、東大紛争などが小説にも出てきますが、
そのころの女性の生き方や価値観がレトロっぽく面白いです。
「嫁ぐ」「嫁にやる」「父の許しをえて、二年間だけ働いた」・・
もういまでは耳にすることもほとんどなくなった死語や、生活スタイルの羅列に時の流れと女性のステイタスの変化を痛感します。
また既婚男性が当然のように愛人を囲っていたり、それがみな老年男性が中年女性を、中年男性が若い女性を、
といつも極端に女性のほうが若く、また、この作品でヒロインの女性が相手の男性につげず、ひっそりと、彼に迷惑をかけるからと「堕胎」したり、
恋愛といえども、端々に男性中心の都合主義が見え隠れして、そういう時代もあったのだなあ、と感慨にふけっています。
またもう一つ言いたいのは、立原氏の小説のヒロインはいつもそうなのですが、あれは男性の視点から見た女性の情欲のとらえ方だと思うのです。
悪いですが、あんなに女性はセックスが好きではありません。あしからず・・
美術史家鳴海六平太とその妻、陶工の娘の三人が主人公。妻が夫の永の留守に倦んで不倫に走る。男といる現場を夫に目撃され、それが契機となって妻は更に別の男とも不倫を重ね、転落していく。夫は赴任地奈良で、陶工の娘と深い仲に陥る・・・、取り立ててユニークな筋立てではない。奈良の寺/仏像、韓国の古陶磁器、更に美食に関する作者の蘊蓄が全編にちりばめられる。鳴海と陶工娘は休日のたび、唐招提寺をはじめあまたの名跡に仏像参拝に出かけ、帰りにレストランで高価な食事をとる。よくも暇と費用が続くものだ。また鳴海と陶工の娘は類まれな好色、ほとんど毎日セックスしているかのようで、よくもこんな頻繁にできるものだ等、変な心配をしてしまう。場所やメニューを変えて、類似の場面が数十回(?)出てくる。鳴海は妻を悪い女だと不満に思うが、自分も陶工の娘と同棲する、どっちもどっちと言えなくもないはずなのに、他人にかなり偉そうに口を利いているのが笑える。映画で鳴海を演じた北大路欣也の印象によく合っている。ま、作品の目的は作者の美(古跡、仏像、陶器、食、性)意識を開陳することにあるようで、人間は付け足しと考えるべきか。非現実的部分が多いのを承知で読むこと、を作者は求めたのかもしれない。
この作者の日本や日本文化に対する姿勢というのは、何か必死なものがある。それは自身の出自に依るものだろうと一般には言われている。「日本の滅びのことしか考えていなかった。滅び行くものの他は一行も詠うまい。そんな決心をした人もいた」(情炎)、というような主人公の独白を読むとき、そこまで追い込む作者の執念には圧倒されてしまう。 日本の古典文化への傾倒という点では、「活花の師匠が、如何にして上手に花を活けるか、という技巧に熱中しているなかで、(中略)・・・花器や壺に無造作にひとつかみの花を投げ入れ、あるいは小さな湯呑茶碗に一輪さしの花を添えたりした」(情炎)と言うような箇所に、神髄に固執する作者の心根が感じられる。世阿弥の「花伝書」の語句を冠した作品もある!作者にとっては現代風の装飾過多な風潮というものには苦々しさを感じてならなかったのだろう。 本作品集では主人公達(概ね不倫関係にある男女だが)は自分で自分を追いつめ、孤立して破滅していってしまう。作者は、日本文化に対する確固たる視点を持つ主人公達を、繰り返し追いつめ、破滅させることで、自分の身代わりとして自身の破滅を回避して延命するつもりだったのだろうか。やはり圧倒される執念だ。
筆者の食への思い入れが
ひとつひとつの食材を通して
ひしひしと伝わってくる作品だと思います
季節によって
旬のものがいろいろあって
それを楽しむということを
今の日本人は
少しずつ忘れていっているのを
思い出すのにも
最適なものだとも思いました
あわてずにす
ゆっくりと読むと
良いでしょう
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